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質問してみよう「聖書を学ぶ会」—26

 4月、新しい年度を迎え環境の変わった方々もおられる中、変わらずに多くの方々が集会に送られて来ましたことを感謝いたします。

 申命記33章が開かれました。モーセが死を前にしてイスラエル人を祝福した。イスラエルの父親、族長のような長としての役割を果している、民を愛し導く努め。部族ごとに祝福が書かれている、預言のように。私たちも先のことを告げられるということは神の祝福がある。一面厳しさもあり、一部、名が載っていない部族、それはシメオン族、創世記49章の彼らがなしたわざ。たしかに神の祝福と恵みと共に、ないがしろにした場合には数が減らされたり散らされる。モーセを通してレビ族は特別に計られていくが、特別厳しく守らなければならないレビ族に課せられた働きがある。神は一人一人に対してご計画をもって導いておられる。神の導きの中に歩んで行かなければならない。レビ人は安閑と生きていたわけではない。今は新約の時代、キリストの十字架と贖い、一方的なあわれみであるが、だんだんと信仰の継承をする中でどのように自分たちも歩んでいかなければならないかを考えていかなければならないと語られました。

 石井ミワ姉から「礼拝でルカの福音書16章の不正の富のたとえが語られましたが、そのところはイエスキリストの救いを表していると捉えて良いのでしょうか」という質問がなされました。それに対して先生は、いろいろな解釈があると思いますが15章は一般の人たちに語られ16章は弟子たちが聞いている。律法学者にとって証文は不正の富に見える。イエスキリストは不正の富でも良いじゃないか、それでも友となれるならと言われ、本当の富となるものを得ることの方が大切であると教えている。キリストは不正ということをはばからない、信仰者が不正ということで動揺している。私たちが本当に自由意思できちんと立っているならば微動だにしない、まわりになんといわれても、本当に解放されているならば。常識を知って非常識を知る、私たちが本当に神を知ってそれを表わす。常識常識といって神からどんどんと離れて行っている。どこまでも神のあわれみの中で、私はそういう者ですとへりくだっていかなければいけない。神が私たちの片棒を担いでくださった、私たちも喜んで神の片棒を担がせていただき共に歩ませていただきたいと語って下さいました。一人一人に必要な霊的糧をいただき感謝いたしました。

(茂永 和子  仙台聖泉キリスト教会会員)

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