同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

隣人のために、目的からブレない

石井 和幸

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」へブル12:2
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」1コリント13:4~7

 私は以前、ひとりで外食をする際はお店に入ると、店の人が注文を聞きにくるまでずっと待っていることがよくありました。普通の人は自分が注文したいメニューが決まったら、
「すみませーん!」と店員に声を掛けて注文をするのですが、私は飲食店で少しアルバイトをした経験から、店員のペースを乱したくないこと、また自分をちゃんと客として扱っているかどうか試すために、初めて訪れる食堂では大抵、店員が私のところに来るまで待っていました。ですから店によっては、10分くらいジーッとしている時もありました。そのようにしている自分は(つくづく強情な性質をもっているな・・・)と思いました。最近ひとりで外食をした際、(さすがに2人も子どもがいてそのようなことをするのは大人げない)と思い、注文をしたそうな顔をして視線を店員に向けると、明るい表情で店員が注文を聞きに来ました。その様子をみて私は、(「お店の立場を考える」ということは、ジーッと待っていることではないのだ)と実感しました。さて、1歳4カ月になる私の息子は、母親とべったり接しているときに、急に何らかの理由で母親から引き離されると、必ず怒り、泣きます。以前は母親である妻の用事が済み、「もうお母さんのところへ戻っていいよ」と私が言うと、自分でドアを開けて母親のところに駆け寄るか、「抱っこして連れて行ってくれ」というゼスチャーを私にしてしました。しかし最近、私が「あなたお母さんのところに行きたいんだろ?もういいよ、ほら行きなさい。」と言ってドアを開けても、息子はその場で仁王立ちして私の顔を睨みながら泣き、一向に動こうとしません。彼は、私がずっと食堂で店員を待っていたのと同じように、母親が自分を迎えにきてくれるまで、怒り泣きしているのです。その姿をみて私は、(ああ、この子も私と同じ「強情」という罪の傾向性を強くもっている)と感じ、彼を叱りました。理由は、親に向かって怒ってはいけない。強情を貫きとおすのは罪である。そして、父親はこういう場面で怒りと悲しみを覚えることを、しっかり彼に伝えるためでした。親である私たち夫婦は、子どもたちが泣くたびに心が揺らぎ、試されます。けれども、なぜ泣いているのか(泣く必要があるのかを含め)すぐ分析し、親としての方針、家庭の方針を曲げず、ブレずに対応していくことが、今の課題です。 
 2月17日の夜に、私たちの教会で伝道集会が開かれました。玉城 義兄が初めて司会の奉仕をされました。伝道集会における司会は、集会で語られる証しやメッセージを聞くために、来会者の心備えを霊的にリードしていく役目があります。ですから、司会者は会衆讃美の後で聖書を開き、導入の話をします。私たちの教会にて、司会をされる方々は、導入のお話を誰かがどこかで語られたような受け売りにせず、自分の証しを必ず交えて語ってくださいます。義兄は、自らの救いの証しをし、そのきっかけが伝道集会であったこと、「神は私を確かにとらえて、救ってくださった、その恵みのときは今夜も、ここに開かれているのです」と涙ながらに語り、聴衆の心を打ちました。
 メッセージは義兄の父親である、玉城 憲一兄が語ってくださいました。自分の生い立ちから、今に至るまでの救いの証しを語り、最後に若者に向けてメッセージをされました。
とても分かりやすく、ひきこまれていくような幸いな信徒説教でありました。憲一兄は、野球部イーグルスの納会の席にて、若い兄弟から「(生まれ故郷である)沖縄でのことを聞かせてください」と問われたのが、今回のメッセージを語る動機であることを教えてくださいました。玉城 憲一兄と義兄は、それぞれに与えられた任に対する「目的・ねらい」をしっかり捉えて、そこからブレないで、愛する隣人のために奉仕されました。その姿こそ、お2人と、そのご家族が信仰継承を成そうとする姿勢であり、神は豊かにその祈りとわざに報いを下さることを覚え、大変感謝したひとときでした。私たち夫婦も日々かけめぐる状況に流されてしまうのではなく、お互いにきちんと会話をし、神との契約と与えられた目標に向かって祈り、導きにへりくだって励んでいきたいと思っております。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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