同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— イエスの救いにあずかって —

玉城 憲一

「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。」
(イザヤ書 53:1)

 救われる以前はどういう所にいたのか、救われたことがどんなに幸いなことであったのか、救いの証しを書かせていただきます。
 私の母は、沖縄で母の姉と一緒に居て炊事洗濯をして生活していました。精神的な弱さを持っていましたので結婚しないつもりでいたそうです。父は結婚していましたけど、子供ができなかったので、子供が欲しかったそうです。性的にだらしない人であり、そこで生まれたのが姉と私の二人の子供でした。母の親戚の方々は結婚に反対していました。戦争が始まり父は別の女と一緒に台湾に疎開して行きました。戦争が終わって、沖縄は全滅したと思って本土の方に来たと言っていました。母は女手一つで生活しなければならない、大変な生活でした。仕事は行商したり、土方をしたり、姉の所の洗濯物を持ってきて家で洗濯して持って行っていくらかのお金をもらうという生活でした。いまは苦しいけど父が迎えに来るんだと、今の苦しさから逃れるために、そのようなことを言っておりました。親戚の人達の助けによってなんとか生きて来られた生活でした。
 私が中学二年の頃、母の仕事もなくなり、家で煙草を喫ったり、独り言をいうようになりました。そのような母を見た私は母に当たり散らしてよけいいらだだせるような子供でありました。自分は親戚の家でご飯を食べさせてもらっていながら、家に帰ると食事をちゃんと作れとか、煙草を喫うなとか言って、やさしい言葉のひとつでもかけてやることの出来ない子供でありまして、母の容態を余計に悪くしてしまいました。そのうち一斗缶を棒きれでドンドンと叩いて大声で叫んでいる母の姿を見たことであります。隣近所の人達が何事だと言って皆集まって来て、なんとか宥め静かにさせた事でありました。何ともいたたまれない思いがした事であります。自分の親がまともな親だったらどんなに良いだろうと考えました。けれどもその事は私の母に対する態度もその原因の一つでありました。今考えると、自分の事しか考えない子供であり、我が儘な者であったと思います。
 そのような中で私が何を考えていたかといいますと、母の人を頼った生活が嫌でありまして、将来の夢は人を頼らずに生きて行くことでありました。自分なりの人生観といいますか、それがありまして、人より何か出来る事をそれが幸福な事だ、技術を身につけること、運転免許をとること、バイクの免許をとること、溶接の免許をとることだとか、それを一生懸命やることが幸福なんだとか、わけのわからない考えを持っていました。
 その後父の親戚の人が、私が夜間高校三年の時、父の所に行った方が良いと何度もさそいに来ました。それで最初姉が行き、二回目は母と私が行きました。父の所の生活は、父は大工だったので、大工の見習いとして父と一緒に仕事をしました。その大工見習いを三年くらいやっていましたけど、いつまでたっても同じ仕事、下っ端の仕事しか出来ない、させられない、あれを持って来い、これを持って来い、と力仕事をさせられたりと、仕事を覚えることができませんでした。覚えようと思いましたが、なかなか覚えられず、どうせ駄目な人生になるのだったら、自分の思い通りにやって失敗するのだったら自分に納得がいくと思いました。私は仙台の家を出て東京に行き、そこで生活をはじめました。仕事は鉄工所の仕事でした。夜は時間がありましたので相変わらず自分の考えで何か自分の身につける事、技術とか、字が下手だから字の練習を見ようとか考えて、ブラブラ夜の東京の町を歩いていました。その時教会に行ってみようと思いまして、インマヌエル深川教会に行きました。最初の祈祷会の時に先生から聞かれました。あなたはどこから来たのか、一人で沖縄から来たのかと聞かれました。そのとき私はいいかげんな、でたらめな事を言いました。一人で沖縄から来た、集団就職か何かで来たのかと先生から言われ、いや違います、一人で来たのです、と言いました。その場はそれで過ぎましたけど、会社に帰った後になって、いけないことをしたと思いました。教会に行って正直に先生に話をしました。沖縄から家族と一緒に仙台に来た。そこから家を出て東京に来たと言いました。その時に先生からお勧めがあり、救いの恵みに与りましせんかと言われ、私は救われるとはどういう事かくわしくしりませんけど、一緒にお祈りをさせていただきました。先生に「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(1ヨハネ1:9)から祈っていただきました。その時に与えられた御言葉であると信じています。
 しばらく信仰生活を続けていましたが、その時に先生からもし仙台に行った時は、東一番町一丁目の所に教会があるから、行ってみなさいと言われました。りっぱな先生だからと言われました。東京からオヤジの居る仙台に来て生活するようになり、最初は伝道会だけ行かせてくれと言って、伝道会だけでていました。教会に来て感じた事は、今までの自分の人生がいかに間違った人生であったのか、神無しの人生だったから駄目な人生だったのだと思いました。聖書の最初の御言葉に、神、はじめに天地を造り給えり、という御言葉がありますけど、その通りだと思いました。神が全て造られたのである、人が神を造ったのではない、人の上に神がいる、と思いました。だから自分の人生は間違っていたのだ、神は有りとする所に人間の生き方があるのだと思いました。自分の中に何もなくても教会に行くことができるならば、それだけで満足だと思いました。父にもあとは何も言わないから教会にだけ行かせてくれと言い、教会に通い続けていました。最初は伝道会だけ行っていましたけど、その内に祈祷会、礼拝にも出るようになりました。その当時の大工さんは日曜日の休みは第一と第三しかありませんでした。日曜日の礼拝は、第一と第三は守ることが出来ますけど、他の集会の時は休まなければなりません。そのことを青年会の時に話ました。先生から集会に来なさいと言われました。私は悩みました。また祈りました。そして集会の方を選ぶことができました。仕事も半人前なのに、又他の人が働いているけど私は休むことがものすごく気が引けてしまいます。又休ませて下さいと言うのがなかなか言いにくいことでした。それでも私は集会の方を選ばせていただき、教会に通い続けました。今ではその事が大変よかったと思っております。幸いな結婚をさせていただき二人の子供が与えられて守られていることを感謝しています。
 問題があるたびごとに先生のところに行くという生活でありましたが、いろいろな問題を乗り越えることができたことを感謝しています。先生が導いて下さったことによってこの小さな家庭を守っていただき、ここまで来ることができたことであります。
 問題のあった息子ではありましたけど、先生はじめ教会の兄弟たちに祈っていただき結婚できましたことを感謝しています。昨年は息子夫婦のところに長男が与えられ、神の更なる祝福のうちにいかされていることを感謝しています。山本嘉納先生、盡子先生に導いていただいて信仰生活を進んでもらいたいと願っております。自分自身の人生を振り返って見たときに、結婚は人生にとって大事な事である、その人の生涯を決定するものである、また、クリスチャンどうしの結婚はいかに幸いな事であるか考えさせられることであります。こうして神の祝福のうちに生かされている事を心から感謝しております。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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