同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

答えはキリストにあり、聖書にある!

石井 和幸

「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。」( コロサイ 3:1)
「しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。そこには、ギリシア人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」(コロサイ3:8-11)

 私の娘・・・長女は4月で3歳半になり、幼稚園に入園します。ここまで神の守りと、多くの方々のお祈りに支えられたことを本当に感謝しております。 私自身の人生も、3歳くらいから記憶があります。ですから、最近娘との時間を過ごすたびに、自分が3歳のときはどうだったか・・・という記憶が浮かび上がってきます。私と娘との共通点は、どちらも長子であり、親と直接関わる時間、経験が兄弟のなかでいちばん多く、親の思いも比較的ダイレクト、ストレートに伝わる立場であることです。 最近、娘とお風呂に入るとき、よく『ままごと』をして遊びます。・・・「おとうさん、『まみおかあさん、遊ぼう!』って言って」 ・・・娘の言うとおりに私がすると、彼女は得意げに「いまご飯つくってるからまっててね」と言います。さらに娘が「『え〜今遊んでよ〜』って言って!」と言うのでそのとおりにすると、「しょうがないなー。ご飯つくってからね」と娘は答え、同じ会話をほぼエンドレスに繰り返します(笑)。娘は、おばあさんの真似をして、「遅くなってごめんね〜」と言う時もあります。娘は、多くの時間をともに過ごす母親やおばあさんの言動と行動をよく見て、憧れをもっているのがよくわかります。家族に気配りをしているのを見て、自分も家族に対し、(何か役に立ちたい)と思っていることも、食卓を囲むとわかります。娘は身近なことを通して、自ら生活の術を少しずつ学んでいるのです。
 私たちの教会では長年、祈祷会とは別枠で聖書研究会がほぼ毎月持たれています。今年から、若者向けに「聖書研究会基礎科」を開くことになり、先日第1回目の集会が持たれました。 この日のテキスト聖書箇所はコロサイ3章5節〜15節。聖書を読む会発行の「主に仕える」という手引書を用いて、小グループに分かれて手引書の設問に答える形式にて学びが進められました。 私が参加したグループでは、高校生のA兄がリーダーに選ばれました。彼は、第2問の「キリストにある新しい人たちにふさわしくないのは、どんな生き方ですか?あげてみましょう」という問いにさしかかったときに、「僕はこの質問ちょっと分からないし、質問はこの後も多く今日は時間がないので、第2問について先輩方に体験談や意見を言ってもらって、それについてみんなで話し合いましょう」と提案しました。A兄の意見はある意味、スムーズに集会を進めるには良い方法です。けれども私は答えました。「提案なんですが、この手引書の質問の答えはネ、基本的に全部今日の聖書箇所に書いてあるんですよ。だから、全部の質問に答えられなくても、やっぱり聖書からみんなで答えを見つけることが大事だと思います」 ・・・そして、A兄を含めグループ全員で当初の予定通り学びを進めました。小学生のB姉が積極的に良い発言をしていたのがとても感謝でした。 実はこの集会が始まる前、私は長い間教会の聖書研究会を担当されたN兄と、聖書の学びについて会話をしていました。N兄はR.A.トーレイの『聖書の教え』を読んで、『聖書はこう教えている、答えは聖書にこう書いてある』というトーレイの姿勢に心を打たれ、それ以来信仰生活において、特に聖書研究会や聖書の学びを進める上でその姿勢は根幹となったそうです。 私は集会後、妻との会話の中で、忙しいことを言い訳にせずに、神と交わり、聖書に寄り添い、メッセージに寄り添って生きることに取り組むことを改めて確認しました。
 先日、娘は私との入浴を済ませた後、『どうしてもお母さんと遊びたい』と主張しました。私が、「今日はもう寝る時間だから、お父さんと一緒に寝よう。明日お母さんといっしょに遊んでもらいなさい」と言うと、私に向かって物を投げつけ、あてつけをしました。私は娘のお尻をたたき、叱りましたが、彼女はそれでも自分の主張を押し通しました。 私は娘に、「あなたの好きにしなさい。そのかわり、もうお父さんはあなたと二度と遊ばない。」 そう言って私は自分の布団をかぶり、寝床につきました。彼女は大泣きして、母親のもとに駆け寄り、私に叱られて突き放された旨を報告しました。 そして私の部屋に入り、寝ている私に向かって、「おとうさん、ごめんなさい」と謝りました。私はもう一度、父親に逆らってはいけない、父親をおしのけてはいけない、あなたはえらくない・・・と叱った理由を伝えて彼女に「分かりましたか?」と確認をし、赦しました。
 神から受けた愛、イエス・キリストの十字架によって自らにもたらされた愛をもって、子どもを育てていくことは、私たちの家庭に与えられた使命です。子どもにその愛が伝わっているか?を意識していくのと同時に、子どもが両手を広げて親の腕に入るように、私自身もなお、神を愛し続けていきたいと思いました。聖書を学ぶ意欲、メッセージに生きる意欲と姿勢は、何より神を愛することが動機となるのです。「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。」(ヨハネ15:10)
 日本の教会の子どもたちの多くは中学生あたりから、教会を離れていくようです。けれども、この時期イエス・キリストに出会い、聖書のみことばに生かされる喜びを知った若者は、早くから教会を担う器となります。また、私の妻のように、一度教会を離れますが学生時代、大人になってもう一度みことばに触れ、教会を訪れてイエス・キリストによって救われる方々もいます。 私の子どもたちにとっても、信仰の継承は大きな課題です。私たち夫婦が、いのちのことばをしっかり握って、「罪に打ち勝ち、勝利の人生を歩む命題の答えは常にイエス・キリストにあり、聖書にある」こと、教会は神からのメッセージが真っ直ぐに語られるところであり、自らと隣人を生かすところであることを、証しし続けていきたく、祈りつつ励んでいこうと思っております。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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