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質問してみよう「聖書を学ぶ会」—16

 6月の聖書を学ぶ会、台風4号が接近する中でありましたが、守られ変わりなく集会を持つことができましたことを感謝ましした。
 この年、私たちの教会ではイザヤ書を通して礼拝メッセージが語られています。先日のメッセージの中でヒゼキヤの次にマナセの時代が来て、その悪いマナセの時代はヒゼキヤの時の反動が来たもの、王と民が本気で一致し神を信じる信仰によって生きたならばマナセの時代は来なかったと語られましたがマナセは12歳で王となったとあり、まだ実権は握っていなかったと思うので大人になり実権を握るまでの間におかしくなっていったのでしょうか。という質問をさせていただきました。それに対して先生はヒゼキヤは病気になり死ぬと告げられた時、主に祈り求め寿命が15年延ばされたのでその間にマナセは生まれた。では、マナセは生まれなかった方が良かったのか、そうではなくヒゼキヤにはマナセの他にも息子はいて他の人を王とすることもできた。ヒゼキヤと一緒に歩んで来た人たちの中にはアッシリヤが迫りくる脅威の中、ヒゼキヤと共に預言者イザヤのもと踏ん張っていた人たちがいた。しかし、苦しくてもうやってられない、やらされたという反動が次に自分たちの思いを遂げることのできるマナセを王とした。そのマナセの時代に犯した大きな過ちがユダ王国の決定的な滅びを招いた元凶となった。今の私たちには、刻々と押し寄せてくるアッシリヤというものが景気が悪くなっていく状態なのか、何なのか。やらされている、もうやってられないというような反動をできるだけ避けていきたい。信仰に生きるとは、神を畏れて生きるとはどういうことか、どのところまでそれをするのか。と語られました。尚も考えさせられ、問われる時でした。

(執筆担当 茂永 和子  仙台聖泉キリスト教会会員)

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