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質問してみよう「聖書を学ぶ会」—12

 1年で一番寒さの厳しい中、体調を崩したり忙しさの中にいる方々も多くいることを覚える時でありましたが、守られて聖書を学ぶ会が持たれましたことを感謝いたします。

 申命記19章が開かれました。のがれの町について書いてありますが、その中で語られたことは、わざわいは起こるものと考えておかなければならない、罪の問題とわざわいとは別のものである。わざわいは常に隣にあり、それを人情的に捉えるのではなく、イエスキリストはそれを乗り越えて更に私たちが信仰の高嶺を歩むことを望んでおられる。わざわいが私たちを悪くするのではなく罪が私たちを悪くする。そして罪の問題は恐ろしく、解決されていかないと増大してしまう。みことばを聞き、それを行い、生活に反映させていくことが大切であると。

 申命記19章21節の「あわれみをかけてはならない」とはどういうことを指しているのでしょうかという質問がなされました。それに対して、それは等価裁きであり等価ということはそれによってお互いが守られているという答えがありました。新約の時代においてイエスキリストの贖いをどう値積るか、正しい見積りをしなければならない。人は信仰よりも能力を身に付けようとするが信仰によって生きるということを知らなければ、すべてがわからなくなる。子供に信仰で生きることを教えていかなければならない。そのためにそれを、まず自分のものとしなければならない。仕事でもきちんと値積っていくとその人は正直者として信用され、結果仕事が来るようになる。わざわいの時、慌てずにどう対処するかがやはり大切であると語られました。
 信仰と生活が遊離していってはならないとも語られ、日々心していかなければならない大切なことを教えていただく幸いな集会でした。

(執筆担当 茂永 和子  仙台聖泉キリスト教会会員)

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