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質問してみよう「聖書を学ぶ会」—15

 4月、イースターの記念を覚えるとともに新しい年度を迎え、新たな一歩を踏み出した方々を覚えることであります。今回の質問は大学に入学したばかりの山田汀姉からでした。

 事の多い月でありました。私たちの教会にとっては、長く信仰の戦いをして来られた愛する姉妹を天に送るという出来事もありましたがひとつひとつ越えさせていただきながら変わりなく5月の聖書を学ぶ会が開かれましたことを感謝いたします。

 大学生の山本守兄からの質問です。「先月の礼拝の中でサムエル記第2の19章にあるダビデとアブシャロムの関係が語られていました。すべての民は嘆いたとありますが、敵であるアブシャロムを殺し勝利したのに王は喜ばずに悲しんでいるということに嘆いたのか、それともダビデの息子を失った悲しみを思い嘆いていたのか、どちらですか?」

 それはダビデの悲しみを共に嘆いたということです。ダビデが60歳になったあたりアブシャロムの謀反があったが長い間かけて王国の建設をしてきた。それは、王と心ひとつにして歩む人々を育て建て上げてきた。ダビデは最後、神に委ねた。ヨアブはこのままだったら彼らはあなたの前からいなくなりますよと忠告をした。ヨアブという人物はいつも側にいて汚い仕事や裏側のこともしていた。ヨアブはダビデを決して追い抜かなかった。ソロモンにはヨアブを長く生かしておいてはいけない、気をつけるよう注意を与えていた。ダビデの問題はバテ・シェバとの罪よりも弱いものを弱いままにしていてしまったこと、きちんと裁いていればよかったがアブシャロムを放置してしまった。ナタンを通して罪に定められ、赦されたんだということも考え覚えていなければならない、私は神に赦されたんだということを。曖昧にするのではなく罪に向き合って白黒はっきりつけ処理されていくことが大切で神を信ずるということが本当に私たちの中になければならない。一番怖いのは一番大切なものを取られる時。取り乱さないようになぜできるかは一番大切なものを主に捧げることを日々、取捨選択しているからと語られました。

 一人一人の質問を通して共に恵みをいただくときが与えられていますことを感謝いたします。

(執筆担当 茂永 和子  仙台聖泉キリスト教会会員)

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