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キリスト教—信徒の志す—

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質問してみよう「聖書を学ぶ会」—18

 8月、暑さ厳しい中でありましたが涼しい場所も備えられて集会を持つことが出来ました恵みを感謝いたします。
 相澤遥姉からヨハネの福音書1章1節に「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」とあり、ことばはキリストのことを指していると思うのですが、キリストと神をどうして分けているのでしょうかという質問がなされました。
 ヨハネはキリストをことばと表現し、人としての神キリスト、人となられた神ご自身を表した。キリストは全ての創造主であり、神の意思が創造をした。神という方の神でいらっしゃる意思が人となられた。キリストは間違いなく人であり、神である。ヨハネの福音書はヨハネの晩年に書かれたもので、良し悪しではないが後に出たものは前のものを補完している部分もあります。ヨハネは神とお会いしていて親しい関係であった。「この方は」というのは人の心を惹きつける掴みという意味合いもあります。福音にはことばが必要でキリスト教は修行の宗教ではなく、会話、コミュニケーションが大切です。子供にも成長とともにことばを掛ける、小さい時からきちんとことばを掛けないと欲求ばかりが大きくなる。自制が欲求を早く追い越せるように、神を私たちが知り、早く取り組まなければならない。自制のうちから要求も出てくる。産まれた時から一番かかわっている母親の影響は大きく母親が自己犠牲できるか、何を優先しているか、それは母親に返ってくる。神を教えるということは自己犠牲を教えることであり、子供が我慢することができるか、まず従いなさいということばに従うことができるようになるか。なぜ教会にいられなくなるかは自分のしたいことが勝ってしまうから。神の前にへりくだることができるか。教会は実践の場として、わざわざ試し行っているということを語られました。
 私も一人の娘の母親として、尚も取り組みの必要性を覚えさせられたことであります。

(執筆担当 茂永 和子  仙台聖泉キリスト教会会員)

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