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質問してみよう「聖書を学ぶ会」—20

 10月の聖書を学ぶ会、申命記27章が開かれました。いよいよカナンに入るというところでモーセがイスラエルの民に変わらず命じている箇所です。
 人は曖昧にしがちなところを、祝福とのろい、神ははっきりと語られている。民が秩序正しく整えられて神の民としての存亡が神のアイデンティティー、わたしはイスラエルの神であるということを表しておられる。イスラエルの民は畏れながら緊張感を持ってそのことに臨まなければならなかった。特別なお仕事に対して、特別なお扱いがある。個人ではなく部族、民としてアーメンと問われている。人は集いという中でその良さに憩い習得する。家庭もそういうところがある。悪いものの中にあっても影響され、集いとしての質も問われていく。教会の中でも豊かに一つ一つ成されていくならば、その恩恵に与って行くことができる。自分たちも弱くなった時など集いの力によって引き戻されたり生かされたりする。みんなでアーメンと言ったことが命につながっていく。と語られました。
 今回の質問はM姉から「礼拝や集会の中で崖っぷちを歩むことの危険性が語られ自分にとっての崖っぷちを考えた時、自分が鈍感な者であるということを最近気づかされることがありました。そういうところをどうチェックしていったら良いのでしょうか」とありました。それに対して先生は、介入されるための遜りが必要で、だれかに聞くということ、そして聞いたならばそれが分からなくても「はい、わかりました」と従っていく時にそれが進展していく。私たちは本当に謙遜でいられるか。謙遜とはどうこうではなく聞いたんだから聞いた以上はやらなければならない。この仕事のプロに聞いたことをしなければ伸び悩む。本当の謙遜は要所聞かなければならない時、半分とか三分の一とかだけ聞くのではなく全力でそのことをなしていくこと。子供を育てる中でも、先を行っている人の言うことを聞いてみるとか、そのようなことが大切だと思います。と語られました。
 一人一人の質問に対して語られるメッセージに共に教えられ、恵みをいただくことのできる幸いを覚え感謝いたします。

(執筆担当 茂永 和子  仙台聖泉キリスト教会会員)

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