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質問してみよう「聖書を学ぶ会」—17

 この年、早くも後半の歩みに入っていますが月に一度の聖書を学ぶ会、幼子から50代の方々までが集い変わらずに学びの時が持たれています。
生後3カ月と9カ月の元気な男の子を育てているお母さん方もその学びの場所に少しでも居続けられるようにと取り組んでいる姿があります。
その一人、玉城春恵姉から先日の礼拝メッセージの中でヨハネの福音書9章が開かれて盲人の人のお話がなされていたことを主人から聞いたのですがそのところをもう少し教えて下さいと話されました。
今年、イザヤ書を通してメッセージが語られていますがその中心は、神は罪を遺棄され罪を残されたが神の配剤の中で神の真意を捉え歩んでいくことを与えられたこと。それだけでは救いにならないので神は人と契約関係を結ばれたということです。その時のメッセージは契約の履行というテーマで、私たちが契約関係を履行しているか、真実にきちんと履行していくならば神は豊かに応えて下さる。その中でヨハネの福音書9章が開かれました。生まれつきの盲人が癒されたことが書かれていますが盲目に生まれついたのは罪のためではなく神のわざがこの人に現われるためであり、現実に変えられたことがわかるようになされた。イエスキリストは泥を作って盲人の目に塗り、シロアムの池で洗いなさいと言われた。そのシロアムの池はここから三越くらい(普通の人が歩いて12分から15分くらい?)の距離があり、すぐ側ではなかった。律法学者パリサイ人は現実にそのことが起きたのかと聞き、盲目の人は神のほかには癒してくれる人はいないと答えた。知識人たちを恐れずに語ったのは明けて下さった方への敬意と誇りを持っていたから。彼にとっては目が見えるようになることだけではなく神がおられ、その関係が確立することを願っていた。いいとこどりで神との契約は成立していかない、目に見えない神を見ていくことができるか。具体的現実の中で隠れた神を見ることができているかともう一度投げかけられたことでありました。

(執筆担当 茂永 和子  仙台聖泉キリスト教会会員)

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