同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 神に近づく —

「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」
(ヤコブ4:8)

  「日本のキリスト教界の沈滞理由を問う」というテーマにしばらく取り組みました。そこに取り上げた課題に、なぜそうできないのか?と掘り下げることが必要なのです。製造会社で物つくりをしている現場で不適合品が発生したら、技術者を中心にその製品にかかわる会社中の人がその原因を追及し、生産ラインをなおすでしょう。その追及にはなぜ?が何段、何層にも繰り返されるのが普通です。例えば原料に問題があったとします。するとなぜ納入業者はそれを納入したのか?購買の契約はどうなっている?なぜ受け入れ検査をすり抜けたか?使用するときなぜ気づかなかったか?中間製品の段階でなぜ気づかなかったか?出荷検査でなぜひっかからなかったのか?実際に経験してきた人でないとイメージが湧かないかも知れませんが、そういうことなのです。タカタという会社の自動車用エアバッグの品質問題が世の中の話題です。実際の不適合率がどの程度か分かりませんが、実際に起きている事故率は、100万個に1個位です。それでも会社のダメージははかり知れません。
教会の問題、課題はそれらよりも軽いのでしょうか?課題の解決なしに教会の繁栄は得られるのでしょうか?そんなことはありません。製造会社が問題を解決し、良い製品を世に出して顧客に買って貰って繁栄するのと同様に、教会も問題・課題に営々と取り組み、そこに集っている会員たちが福音に相応しいものとして建て上げられて繁栄します。
このテーマは、今回はここまでで終わりにしました。しかし、読者の皆さんが、一般論はさておき、自分と自分の家庭と自分の教会を活力あるものとするために、このテーマに心を留めて下さることを願っています。

 これからしばらく、「神に近づく」というテーマに取り組みたいと考えています。
筆者の個人的事柄を論説に取り上げるのは、繰り返し述べているとおり相応しくないのですが、「神にちかづく」ということが、私が救いを与えられる入り口となり、キリスト者としての生涯のキーワードでした。
 冒頭のみことばは、神の素晴らしいお約束です。神に近づくことが許されるのです。人間どうしの関係を例にとれば、牧師と教会員、夫婦、親子、兄弟、友人、隣人、会社の上司・同僚・部下・・・といろいろありますが、夫婦ほど近い関係はありません。しかし、それにも近さの程度が人により千差万別です。
 「神に近づく」という栄光あるテーマに、是非、皆さんも取り組んでください。

 お勧めできる最初のステップは讃美です。

  1. 主よ我は君のもの 御声のままに
    信仰の手伸ばしつつ いよよ近づかん
    今主よ引たまえ 身許にわれを
    今主よ主よ引きたまえ 十字架に我を
  2. 主よすべて御力に 委ねまつれば
    我ならで君が旨 なさしめたまえ
  3. 主よ君の御座近く 我を引き寄せ
    隔てなき友のごと あらしめたまえ
  4. 主よなおも知り難き 愛の深さと
    喜びの高さとを 知らしめたまえ
   (インマヌエル讃美歌577)

 神の御座近く引き寄せていただき、隔てない友のように神と一緒にいられたら、なんと幸いでしょう。
 この讃美は、
「もし私が鳥だったらよかったのに・・」というような、ただの願望だけでしょうか。

 そうでないとしたら、つまり本当に自分に実現していただけるものであったら、どうしたらそれを与えられますか?
この讃美を繰り返し、歌いましょう。そして1日中、・・何をしているときも、心の中に・・讃美が鳴り響いているようになるまで歌いましょう。

 主よ 騒がしき 世の巷に
 我を忘れて いそしむ間も
 小さき御声を 聞き分け得る
 静けき心 与えたまえ
 (インマヌエル讃美歌128)

歌っているときだけの讃美でなく、私たちの生活の中に実現する讃美でありますように。

前日の集会で歌われた讃美歌が、翌日1日中、心の中で鳴り響き続けることは、よくあることです。

♪ 神はその独り子をたもうほどに、この世を愛された・・

♪ 感謝します・・

♪ 汝がため 我生きん これ我が喜び
  御跡を踏み行かん 我が主イエスよ・・

と。

1日中、心の中に讃美が鳴り響く、そこに神に近づく道があります。