同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 日本のキリスト教界の沈滞理由を問う(30) —

「また言われた。『神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。』」
(マルコ4:28)

 教会の沈滞という視点から述べていますが、裏を返せば、どうすれば教会が繁栄するかということでもあります。
 この論の書き出しを見て、ある兄弟が「もっと祈りについて論ずべきです」との意見を下さいました。そのようなことから、教会の祈祷会のこと、個人の祈りのことに触れてきましたが、もうひとつ、重要なことに、牧師の祈りがあるように思えてなりません。

 私のよく存じている先生がおられました。戦後数年経って、開拓伝道からはじめて教会を建てられました。25年ほど経って、その先生の教会は、礼拝250人を超え、伝道会と祈祷会は150人を超える出席者となりました。その先生のなさったことは、ここに論じてきたことそのものです。神を畏れることを第一とし、自分の説教を何よりも重んじました。自分で救いに導いた兄姉に配偶者をさがし、結婚のお世話をし、そのようにしてつくられた家庭が建て上げられていくことに奔走しました。そこには夫婦の調和、こどもの育て方、経済の問題、それぞれの家庭が抱える仕事先や近隣の家々とのことなどに信仰の視点からこのようにしていきなさいと指導されました。教会の近くに住み、できるだけ個人事業を営むことを勧められました。個人事業は自分の行動を自分で決めることができますが、会社勤めをすると自分の思い通りにならないためです。
 事業を営むと時には資金繰りに困ることなどがおきてきますが、教会員個人のあいだでは決して貸し借りをさせませんでした。ある教会の役員研修会の講師にまねかれてその先生が話されたことですが、「お金の貸し借りをすると、貸した方の人が偉くなり、借りた方の人が低くなる。教会のなかで、ある人が偉くある人が低くなる、そんなことがあってはならない。だから、資金に余裕のある兄弟から私が借り、そのお金がどこから来たか分からないように、資金繰りに困っている兄弟に融通した。」と。これは一例であり、多くのことにそのような配慮をもって教会員を指導しました。
 その先生のときその教会は栄えたといえるでしょう。時が経って、その先生とその教会についてなにがその栄えをもたらしたのかと思い巡らすとき、ある集会のあったとき、ご婦人の先生が私に言われたひとことが深くこころにとまります。「先生はお偉いの。どんなことがあっても(前夜の就寝が遅くなっても)、早朝のお祈りの時を決して欠かさないのよ。」と。
 冒頭のみことばのとおり、「どのようにしてか、人は知りません。」背景にこの先生の力量やどのように生きたか。工夫、精進といったものがあることでしょう。しかし教会は神の祝福なしに栄えることはないでしょう。神の祝福の源は、先生の早朝の祈りにあったことを疑うことができません。

 私の知っているもう一人の先生についてご紹介しましょう。この先生が早朝祈られたかどうか私は知りません。この先生はいつも午前中を、ご自分のみことばと祈りと学びの時としておられました。教会員に、緊急の時はいつでも対応されましたが、普段は、なるべく午後相談に来て下さい、といっておられました。
 神を畏れ、説教を重んじること、救いに導いた兄姉の家庭建設に労したことは先の先生と同じでありました。この先生の心がけたことは、教会の行事や、様々な活動、遊びなどを通して兄弟姉妹たちと一緒に過ごす時をできるだけ多く持ち、また家庭のことに関する相談を受けることなどによって、教会員ひとりひとりが、神の前にどう変わっていかなければならないか、その課題を把握することでした。ですから、楽しめるはずの遊び、皆で出かける旅行などにあっても、緊張が解けることがない・・。そのことについて「じりじりっと、やり続けた・・」と表現しておられました。
 先生が神の前に出るとき、教会員を十把一絡げにして、「どうぞ祝福してやってください。」と祈ったのではありませんでした。把握したひとりひとりの課題を神の前に置いて神に祈ったに違いありません。
 「そこでイエスは、さらにこう言われた。『わたしに何をしてほしいのか。』すると、盲人は言った。『先生。目が見えるようになることです。』」(マルコ10:51)誰かに代わって神の前に立つのに、何が必要か把握していなかったら、イエスの質問に答えられません。そこにこの先生が「じりじり」生きた内容があります。
 この先生の教会は、人数こそ増えませんでしたが、時が経って、大変善い風土の教会になったと言えます。神を畏れ、牧師に従い、兄弟姉妹たち相互の愛が豊かである教会になりました。若者たち、子どもたちもみな集会にいそいそとやってくるのを見、キリスト者3世、4世の若者たちで、音楽のバンドができ、スポーツのチームができていることは何と幸いでしょう。そこに教会の栄えを感じます。
 それを生み出した源に、先生の神の前に立った時間があることを疑いません。

 私たち教会員は、先生方が祈りの時を確保できるように配慮することが必要です。時には献金がそれに関わっているかも知れません。教会が栄えることは私たち自身が栄えることです。