同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 栄えに満ちた救いを受けましょう —

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(1ペテロ1:8-9)

 今年は4月13日(日)から受難週に入り、20日(日)がイースターにあたります。毎年おすすめしていることですが、自分の与えられた恵みを思い返し、忘れないようにしたいものです。申命記には何度もその警告が記されています。「あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。あなたの神、主を恐れなければならない。」(申命記6:12)
 旧約聖書を読んで、私はそんな失敗はしなかっただろうなどと思いませんように。もし私たちが、救われる以前の状態がどんなものであったか、本当に「滅びの火」が当然のものであったことを深く悟ることができないならきっと、すぐ忘れたイスラエルと同じ轍を踏むことでしょう。神が彼らの記録を残されたのは、私たちへの警告のためです。
私たちはサタンの奴隷、己の罪の奴隷でした。それはなんと虚しいものであったことでしょう。ところが、救われてその虚しさから、一息つかせていただくと、以前の生活のよかったところ、楽しかったところだけを思い出し、罪の奴隷の生活がどんなに苦しいものであったか忘れるのです。 パウロはこう解説しています。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。そのころのあなたがたは、キリストから離れ、・・・この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。」(エペソ2:1-3、12)
 かつての自分が神の前にどのようなものであったかを正しく認識できることはなんと大切なことでしょう。その時、イエス・キリストが十字架の贖いによって「たましいの救い」を下さったことの意味を真に理解できます。
 それと共にイエス・キリストの救いのみ業が、こころの奥底まで、隅々まで届かなければなりません。主はそれを与えようと思っておられるのです。信じ、従ってこの世をイエスと共に歩むことは、教会とその働き人たちと共に歩むことによって実現します。
 栄えに満ちた喜びに踊っている人生がそこにあります。