同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 結実の考察(第12回) —

野澤 睦雄

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため・・です。」
(ヨハネ 3:16)
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」

(ヨハネ 15:8)

<3.聖書の示す世界観>

4.死

 「死」ということは、「いのち」の反対側を示すものであって、イエスの救いの重要テーマです。
イエスは「死」によって私たちに、「いのち」をお与えになりました。
 はじめに、ローマ人への手紙6章の前半を見てみましょう。(ローマ6:1-13)

「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」

以下に結実の本文を引用します。
・・・・・・・・・
 現在「死の判定」は社会問題となっていますが、聖書にはその定義が明確に示されています。
 人間の死の判定:それは、”血液が死んだときその人は死んだと判定される。”のです。「血は命だから…」(申命記12の23)
 イエスの死について、「兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出てきた。」(ヨハネ19の34)と記されていますが、これは、血液が既に血漿と血清に分離し、血液自体が死んだことを示しています。ですからイエスの肉体は、完全に死んだのです。
 死の判断には、脳死の人の処置をどのようにしたらよいかという社会問題に関わってきます。脳死判定の議論について触れるならば、脳死は肉体の死ではありません。しかし、脳死のまま人を生かし続けているということは、”物質である体だけを、機械を用いて無理に生かし続けて”いるのです。ですからそれは無駄なことあって、機械を止めてその人が亡くなった場合には、”殺した”のではなく、”死んだ”と理解すべきです。
 一方、霊界に目を向けて「霊にも死があるのか」と考えますと、それは明確には分かりません。「第二の死」(黙示20の14)という言葉は、霊の死を暗示しています。しかし、その内容は肉体の死の場合とはかなり違っていて、永遠の刑罰を受けることです。
 地上の生涯における人間の霊は特殊であって、人間の肉体に宿っている霊、すなわちその人本人の霊は、「それ(善悪の知識の木の実)をとって食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2の17)という神の言葉が実現して、霊界においては死んだものです。「あなたは生きているとされているが、実は死んでいる。」(黙示3の1)との言葉の通りです。しかし、サタンが「あなたがたは決して死にません。」(創世記3の4)と言った言葉も実現し、肉体が生きていることと、人が罪には生きている現実が観察されます。パウロは人間が救われた時、「罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者。」(ローマ6の11)としていますが、救いに与る以前の人間は、ちょうどその逆で、神に対しては死んだ者、罪に対しては生きた者です。
 このローマ人への手紙六章十一節に示されていることが、3.命の項で述べた、キリストの贖いによって霊の死から命に移されて与えられる新生の命です。

(仙台聖泉キリスト教会員)