同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 日本のキリスト教界の沈滞理由を問う(24) —

「この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」」 (マタイ 19:20−21)

 繰り返しますが、集会出席、聖書通読・ ・・というようなことは、冒頭のみことばに出ている青年が、「そのようなことはみな、守っております。」と言ったものです。確かにこれらを守っていない人にとっては、必要な訓練のひとつであるといえるでしょうが、これらはキリスト教を信じた人が何も変わらなくても、つまり霊的な進歩、霊的成長がなくとも守ることができるものです。
 繰り返し強調してきたことですが、習い事でもスポーツでも勉強でも、進歩を感じるときそれが面白く感じられるのです。 キリスト教についても、信仰に進歩するとき面白く感じ、信仰に進歩を見ないと面白くなくなってきます。集会に出席する、聖書を読む・・・をしても、自分は信仰に進歩した、成長したと感じないでしょう。
 この青年の「富」に相当するものは、皆さんそれぞれにとって何でしょう? ひとりひとり違うものであって当然です。 それを取り扱って頂かなければなりません。
 取り扱って頂くためには、 「指導されるのはいやだ、訓練されるのはいやだ」まず、これを変えなければならないのです。 もしまともなキリスト教の教会であり、まともな牧師、信仰の世界の先を歩む人々であったら、決して無理強いをしないでしょう。誰かが善をなすということは、本人の意志によることが求められるのです。しかたなくする行為はいずれ破綻します。「本人が自ら望んで指導を受ける」のです。それをしないと、進歩、成長のない「面白くない、魅力のない」キリスト教を生きることになります。
 訓練を受けることに進んで身を渡したとしましょう。そのときまず必要なことは、訓練してくれる人に、自分をよく知って貰うことです。これは評価するとか、よく思われるとかではなく、こころの隅々まで、行動の隅々まで、その方によく知ってもらうことです。それには信頼関係が必要ですが、何に信頼するのかというと、自分と指導者をその関係に置かれた「神に信頼する」のです。牧師と信徒、夫婦、親子・・という関係を導かれたのは神であって、その神を信頼することが訓練に身を渡せる根拠です。
 人間から欲というものがなくなることはありませんが、訓練をする側に立つ人は、その訓練にまつわることがらについては、すべての「欲」から解放されていなければなりません。そうでないと、訓練を受ける人との信頼関係は築けません。訓練を受ける人はその「欲」を察知して、訓練から身を引くようになるでしょう。欲から解放されていないと「先生に利用されるのはまっぴらご免だ!」という、蔭でつぶやく人々の声が聞こえてきそうです。しかし、信徒は無私の働きをする先生を見ると、うちの先生は、「聖い神の人」と信頼をします。
 訓練を受ける側の人から、訓練をする人がどのように見えるかは、訓練をする人の実態だけでなく、訓練を受ける人のいかんにも影響を受けます。訓練を受ける人が、最初の要件である進んで訓練を受ける心、自分は訓練して貰いたいのだ、という思いを持っていることがきわめて大切で、それがないと、訓練をする人に対するあら探しが始まります。
 訓練の場となるものは、日常の行動における心の動作というようなものもありますが、人が生きていく中において、決めていかなければならないことにもあります。 どうするか決めていくことに、よくあることは、進学するしない、とかどこの学校にいくとか、どのような職業をめざすとか、どの会社に入る、どのような結婚をしていく、どこに住むかとかといろいろあります。 時には何かを買おうとするとか、どんな暮らし方をするとか、趣味とか、遊びの類とかも対象になることがあります。それらは、自分の思い通りになるとは限りませんが、基本的には自分で選んでいくものです。そこに訓練の場があります。
 もし指導、訓練を受けたいなら、ことを決める前に、指導を受けなければなりません。決めてから、「こうしよう思うのですが・・」と相談にいっても、神がそれを成功させて下さるようにと祝福の祈りをしてくれるかも知れませんが、その件に関しては牧師とか指導者の見解は入ってきません。従って指導、訓練、には至りません。
 訓練をして頂いて、自分のうちに成長を見るとき、キリスト教は楽しいものとなり、「これはなんと奥深い世界が広がっているのだろう。」とキリスト教の魅力に取り憑かれる幸いを得るでしょう。そして人生の片隅においていたキリスト教は、その人の人生そのものになることでしょう。
 罪に属することがらや悪い習慣などについては、懲らしめを受けるという領域のことになります。それは最も大切なことがらです。

「「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。・・・主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。・・・霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(ヘブル12:5-11)