同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 日本のキリスト教界の沈滞理由を問う(27) —

「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。」
(マタイ6:6)

「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」
(黙示3:15-16)

 神を畏れるということを糸口に、献げること、集会に出席することを取り上げました。もうひとつ加えたいと思います。
それは、個人的に聖書を読み、祈るということです。
 日本のキリスト教界が沈滞しているとは、とりも直さず、それを構成しているキリスト者の平均の霊性が低いということ以外のなにものでもありません。神のため、教会のため、隣り人のために自分の財を用いることのできないけちな信仰、集会に座らずに恵みをいただけると思っている不合理な信仰が霊性の低さの証明ですが、聖書を読み、祈る時間を全くもたないということも、それに並べられることです。
 先に、聖書を隅から隅まで知りながら、救われていない人々・・知っているといっても、救われていないために、誤った解釈をする・・がいることについて述べたとおり、聖書を知っているから、聖書を読んでいるから、よい霊性の持ち主であるという証明にはなりませんが、全くみことばを読まず、祈らない生活をしながら、豊かな霊性の持ち主であることができるでしょうか?そういう人がいたらそれは、なにか特別の事情がある、神が特例とされた人であるにちがいありません。普通の生活をすることが許されている信者が、まったくみことばを読むこともなく、祈ることもなかったら、その人に豊かな霊性を期待できないでしょう。
 このことについても自分ことを証ししておきましょう。私は救われたその時から、今に至るまで、52年間、1年に1回の聖書通読を欠かしたことがありません。読めなかった年はありません。つまり、「訓練されたらできるというものではなく、救われたての人もできることです」と言いたいのです。そして、アンドリュー・マーレーを先生として・・・その祈りの書を開き、それに教えられて・・・祈る時間を持ち続けました。隠れた所におられる父にお会いすることはなんと幸いなことであったでしょう。
 日本中のキリスト者の皆さんが私に倣ってくださることを望みます。過ぎ去った過去は取り返すことができませんが、これから先の人生をそうしていっていただきたいのです。そうしたら、日本のキリスト教界の沈滞は大いに改善されるでしょう。
 神は大変忍耐深いお方で、長く私たちを忍び、私たちが問題である思い、ことば、行動をとるとき、聖書のことばを通し、時には普通の人ことばを通して、それを指摘してくださるのです。自分の行為が糾弾される、気になるみことばがあったらそれに心をとめなければなりません。
気になる聖書のことば、献金の証し、集会出席の証し、聖書を読む証し、祈りの時をもつ証し、・・皆さんひとりひとりが、これらとしっかり対峙することを求められているのです。もうしばらく経ちましたが私の教会で、この「対峙する」ということが繰り返し説教されました。自分をそれと対峙させないことは、冒頭にかかげた黙示録のみことばの「なまぬるい」人なのです。それは「糠(ぬか)に釘」なひと、熱いか冷たいかの人は釘を打てば、その釘が立つ堅い板の人なのです。
 イエスの弟子となった人々と、パウロを連想するといいでしょう。 神は熱いひとも、冷たいひとも、釘の立つひとならば、お取り扱いできるのです。
 さてこのように論を進めますと、先に述べてきたこと・・私が訓練として述べていることは、集会出席しましょう、聖書を読みましょう、祈りましょう、献げましょうと、いうようなことではない・・・と矛盾していると思われる方もおられるでしょう。
この誰にでも共通にいえるようなことは、信仰の初歩のことなのですが、これも述べておかなければならないかな、と考え直しました。
皆さんの信仰を更に豊かにする訓練は、ひとりひとり個別なお取り扱いをいただく中にあるのです。