同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 日本のキリスト教界の沈滞理由を問う(25) —

「あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。 あなたの神、主が、あなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。」 (申命記 8:5−7)

 「人がその子を訓練する・・」つまり親が自分の子を訓練するのです。
 イエスは、最後のご命令であらゆる国の人々を「弟子としなさい。」(マタイ28:19)と言われました。弟子を訓練しない師匠はいません。方法はいろいろで違いがあるでしょうけれども弟子を訓練をするのです。牧師は教会員を弟子にせよと命令されていますから、教会員は牧師の弟子の位地にいます。ですから牧師は教会員を訓練するのです。
 「主があなたを訓練する」と書かれていますが、親の訓練を拒絶し、また牧師の訓練を拒絶し、直接主が訓練してくださると思っている信者は、「わがままな信者」になります。実際は、「主は親を用い、牧師を用いて、訓練する」のです。
 訓練する側に立った人は、その場では、訓練を受ける人と同列に自分を置いてはいけないのです。神が、訓練する役目をお与えになったのですから、神の権威をもってその場に臨まなければなりません。自分に足らないところがあってもいいのです。この考え方は非常に大切で、そうでないと力の入った訓練ができないのです。その足らないところは、別の場で神に自分がお取り扱いを受けて、補っていただくのです。子どもが小さいときには打って仕置きもするでしょうし、成長にあわせて別の手段をとるでしょうが、自分も足らない人間だからと、手を引っ込めてはいけないのです。そして、その訓練をすること自体が、訓練する側の人にも訓練になります。
 さきに、牧師に訓練を受けたい人は、牧師に自分の心の内、行動のすべてを知っていただくようにと書きましたが、それについて牧師は、その訓練を受けたい人のことについて知ったことを、自分だけに留めておくことが大切です。もちろん一つの教会に複数の先生がいる場合、指導が一つになるように先生方の間では、それについて話し合う必要があります。しかし、そこからさきにその内容が漏れないことが必要です。訓練を受けた人は、きっと恵みを受けますから、自分でそれを証することがよいのです。
 教会員が身につけなければならない、最も重要な事項は、上の聖句にある「神を恐れ(畏れ)なさい。」ということです。 神を畏れるとはどういうことか、ことばで表現することが大変難しいと感じます。それは神に関する事柄に対する「心の姿勢」にあります。
 イエスが一番大切だとされた「イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マルコ12:30)というご命令の基礎は「神を畏れる」ことです。神を畏れない人が神を愛するでしょうか?そういうことはありえません。
 実例を探し求めると、イエスと一緒に十字架に架けられた犯罪人の会話にこの神を畏れるということがでてきます。「十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。・・・」(ルカ23:39−41)このふたりの犯罪人のうちのひとりはいつからかは分かりませんが、この最後の時に「神を恐れる心」を持っていました。もうひとりはそれを持っていませんでした。その差がふたりを分けました。神を恐れたひとりには天国が約束され、もうひとりには約束されませんでした。
 神を畏れる心を持った方の人には、もう一人の発言が「神を畏れないことを言っている」と分かりました。私たちも自分が神を畏れる心を持っているときにのみ、他の人の発言や、行為が神を畏れるものであるか否かの判断がつくのです。
 教会のなかの行事や、遊びや、様々なことについて、接触する中で、神を畏れるということを尺度に、この人はこれを変えなければならない、というものを見いだす必要があります。それが指導、訓練の対象になるのです。ひとりびとりが違うことの中にその変えていかなければならないものを表すので、絶えず緊張していて、それを見いださなければならないのですが、それが分かるためには、指導、訓練に当たる人自身が「神を畏れる」心を持っているとき、はじめてそれができるのです。
 別な例ですが、神に捧げられたものに対する心の姿勢にも神を畏れることが顕れます。筆者は小さい子どもの時から、献金など、神に捧げられたものは聖別された「神のもの」として恐ろしいものでした。この神に捧げられたものは神に聖別された畏れなければならないものであるという感覚を持っていることは大切です。献金も神社の賽銭箱にお金を投げ込むようなものではなく、献げるときにはイエスの血を通して神に受け取っていただくのです。そうでない献げものはアベルの献げものでなくカインの献げものです。教会の経済は神を畏れて動かされるのです。
 はじめに掲げた聖句のとおり、「主を畏れるもの」となると、神は「良い地に導き入れ」てくださるのです。そのとき魂は、神の平安と神の豊かさを味わいます。そして、「測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地」(詩篇16:6)に導き入れていただいたことを知ります。