同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 日本のキリスト教界の沈滞理由を問う(23) —

「この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」」(マタイ 19:20−21)

 数回に渡って取り上げた、キリスト教の看板を掲げていても、救われた経験がなく、救いの経験に反対する人々については、一端脇に置くことにしましょう。
 それでは、救われている人々とその教会を見回してみたとき、万全と言えるでしょうか?万々歳の状態でしょうか?違うから沈滞ムードがあるということをぬぐい去ることができないのではありませんか。 日本のキリスト教界を観察して、永遠のいのちを約束された人々なのに、なお何を欠くのか?と考えさせられます。
 「救われる」、すなわち罪の赦しと新生のいのちを与えられるということは、イエスが「わたしは門です。」といわれたその門をくぐったということです。「わたしはよい羊飼いです」といわれたイエスと共に生活し、その配慮のもとに、よい実を結んでいくこと、成長し神の家として建てあげられていくことは、その門をくぐった先にあることです。この世の学校に例えるなら、門をくぐるとは、入学することです。学問を教えてもらうのは、入学した後にあることです。
 日本の教会で何を欠くのか?という課題に、この救いの門をくぐると、あたかも学校を卒業したような感じで、卒業すると学校側の扱いがなくなると同じようなことがあると思われるのです。
 今の日本では、新に人を救うということが本当に大変です。路傍伝道しても人々は教会に入ってきませんし、知人をさそってもなかなか教会に来ません。何回か誘いに応じて来てくれても数回で終わりになってしまいます。この新に人を救うことの大変さが、教会の外の人を救うことに使われる力と、既に教会に加わった人々の指導のために使われる力の比率を考えてみるとき、教会とその働き人たちの力が新に人を救うことに多く用いられ、既に教会のなかにいる人々をどのように指導していくかということに用いる力が僅かである、という結果を招いているのではないでしょうか。
 一例として冒頭に掲げた青年についてのみことばをとりあげましたが、人は何に取り組まなければならないか、すべての人が全部違います。この青年は富の問題でした。この人と神の国を隔てているものは富でした。同様に救われたキリスト者は、すべて変わっていかなければならない課題をもっているのです。変わっていかないということは、成長がない、実を実らせることもない、ということを意味します。 「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」(ヘブル5:12−14)
 新約聖書が書かれた時に、すでに変わっていかない人々がいたことがこのみことばで分かります。「この世のもの」と「神に属すもの」の区別がつかない、「良いものと悪いものを見分ける感覚がない」人々です。ヘブル人への手紙の記者は、それは訓練によって得られることを述べています。だれがその訓練をするのでしょう。もちろん牧師であり、教会員の中の先に訓練を受けた人々です。訓練を受けそれを身につけた人でなければ、隣人のトレーナーにはなれません。ですから訓練がなされない事態が続くと、訓練をすることができる人がいなくなり、ますます先細りになります。
 日本のキリスト教界は、50年もその先細りの状態を続けたのではあるまいかと思います。打開するためには、牧師も信徒もありません。その訓練のできる人を見いだして、その指導を受けることです。
 指導されるのは嫌だ、訓練されるのは嫌だ、ということが世に行き渡っています。それが世の中だけでなく、教会の中もそうなってしまっています。
 遜って、「教えられることのできる人」になりましょう。イエスの喜ばれた、「幼な子」は「教えられることのできる人」です。
 一人一人に何を教え、その人にどのような訓練が必要か、人を見分けることが必要です。それには、教会の中で一緒に過ごす時間が必要です。集会はもとより、食事、遊びやさまざまのことによって、一緒に過ごす時を持ち、そこで観察しなければ、訓練を受ける人の必要を見いだすことができません。この訓練に対しては、一般論つまり、集会出席に励みましょう、お祈りしましょう、聖書を読みましょう、信仰書を読みましょう、捧げましょう、伝道に従事しましょう、などといっていてもダメなのです。それらは冒頭のみことばの青年が「幼い時から守っております」と言った事柄です。この青年はただ一つ「富」によって訓練されなければなりませんでした。同様にひとりびとりに、またその時その時にただ一つの訓練されなければならない課題があるのです。訓練する人は休むことなく緊張して、訓練の必要な課題はこれということが示されるその一瞬を捉えなければなりません。ぼやぼやしているとその一瞬は去り、本当にあてがわなければならないものを提供できない無能の働き人になります。持っている力の多くをこのために使わなければなりません。
 遜って神に身を献げ、足らないところを神に補っていただきましょう。