同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 日本のキリスト教界の沈滞理由を問う(31) —

「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。」
(箴言22:6)

 日本キリスト教界を概観して、その問題点とどう対応すべきか考察してきました。
最後にその中で最も重要なことのひとつであると思われる<自分の子どもを救うこと>を、繰り返しになりますが、もう一度取り上げます。
 救われた信者が、夫婦がふたりとも信者であるキリスト者の家庭を築き、そのなかで子どもを育てます。子どもが小さいときは、親と一緒に教会に通います。親は何も心遣いしなくても子どもたちが、信仰をもつだろうと思っています。しかし、多くの人々がそうではないことを経験しています。子どもたちはやがて自分の足で歩くようになり、イエス・キリストの弟子となる信仰をとらず、この世を選んでいってしまいます。日本のキリスト教信者の数が増えないことは、そのようなケースが非常に多いことを意味しています。なぜなら、教会の外から多くの人々が救われて、教会に入ってきているのですから、もし子どもが救われるなら信者の数は増えていくはずだからです。
 子どもたちが、救われないか、あるいは救いに与って信者となっても、親の期待するような信仰の道を歩まないことは、親にとってなんと悲しい事でしょう。しかし、それには原因があります。
・親が子どもたちにとって魅力のない信仰をしてきた
・子どもは親の信仰をよいものと思っているが、この世の魅力、自分の欲しいものを獲得したい誘惑に勝てない
のどちらかです。
 子どもにとって魅力のない信仰の陰には、きっと、信仰が<考え>だけで、<信仰による生活>がなされていない、理念と行動が違っている、「なーんだ、お父さんは口では信仰だ、愛だというけれども、やることはいうことと違っている」と思わせてしまったものがきっとあります。キリストの救いは間違いなく魅力を伴っています。それに本当に生きているなら、その魅力が見えないはずがありません。
 子どもが親の信仰をよいものと思っても、この世の誘惑に負けるのは、きっと子どもの教育に問題があったのです。神は恐ろしいお方であって、神に従わなければならないことと、同時に、神はご自分に従うものを限りない愛をもって慈しんで下さるお方であることを子どものこころに植え付けそこなったのです。
 そこからが問題です。子どもをつなぎ止めておくために、基準を下げたくなります。
「イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。・・・」」(マルコ10:21)
イエスは、永遠のいのちについて質問した若い司に対して彼を「いつくしんで」対応しましたが、乗り越えなければならない基準を決して下げませんでした。神とこの世の両方を獲得することはできないからです。
 私たちの子どもたちが、救われることについても同じです。救いに与ることなしに・・この世の誘惑に負けたまま・・、教会のなかにつなぎ止めておいても無駄なことです。
 ですから、基準を下げないようにしましょう。
 子どもを救いそこなったら、沈黙したくなりますし、できるだけその話を避けて通りたくなります。それで何も言わなくなったら打開の日が訪れることがありません。
はじめに述べましたように、教会は、
・説教
・祈り
・適切なことを実行すること
によって建てあげられます。
 子どもを救うために、その説教がなされなければなりません。牧師と、教会と、親たちと、教会の兄姉の祈りが積まれなければなりません。そのための、適切な行動がとられなければなりません。
 やり損なった人がそれを実行することはなんと辛いことでしょう。それは私自身が経験していることです。しかしトーンを下げずに叫ぶ必要があります。
「自分がその辛さの見本であるから、子育て中の兄弟姉妹たち、何もしなくても自分の子どもは救われると思いませんように。子どもの年齢に応じて、必要な対処をとり続けなければならないのです。子どもの救いと引き替えにできるものは、この世に何もありません。」と。

 子どもを救いに導き損ねた場合に、「私はやり損なったから、何も言えない」と沈黙しませんように。先生方でしたら、説教をし続けなければなりません。役員・長老でしたら、「役員さんの子どもが救われていないのに、子どもを救うことを話せない。」ということがないように、自分が率先して教会の次の世代のために「子どもの救い」を語りましょう。そして、祈りましょう。
 子どもを救うための適切なことは何か、それを知らなければ実行できません。
それを知るために、遜って学んでいきましょう。