同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 御霊によって歩みなさい —

「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」
(ルカ11:13)

 今年は6月8日がペンテコステです。
このコラムで同じことを繰り返し述べていますが、その要点は、私たちは聖霊によって歩むキリスト教をしなければならないということです。
 イエスの弟子たちは、イエスを信じました。復活の主にお会いしました。それだけではなお足らなかったのです。彼らはガリラヤ湖に漁にでなければならないほど、そのこころの虚ろさにやりきれなかったのです。それを決定的に解決したのはペンテコステの経験、すなわち聖霊に満たされることでした。聖霊に満たされた弟子たちは、様々な困難にも、迫害にもめげず、いきいきとした信仰を保ちました。
 それはイエスの弟子たちだけのものだったのでしょうか。そうでないことは冒頭のみことばであきらかです。使徒の働きを読むとき、私たちは主の弟子たちがペンテコステの時に聖霊に満たされたのと同じに、聖霊に満たされていることを当然としていたことが分かります。当時は、それが目に見えて分かるような現象が伴いました。しかしそのような現象が必要なのではなく、聖霊に満たされているかどうかだけが問われます。
 私たちの経験する実際の場面では、エリシャがヨシャパテのために預言したことば、「・・・主がこう仰せられるからだ。『風も見ず、大雨も見ないのに、この谷には水があふれる。・・・』」(2列王記3:17)が当てはまることが多いでしょう。イエスはこういうことを言われました。「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」」(ヨハネ7:37)その記事の前後を読めば、それは聖霊を指しておられることは明らかです。
 パウロは「御霊によって歩みなさい」(ガラテヤ5:16)とガラテヤの教会に書き送りました。このすすめはすべての信者に対するものですが、それはまず「聖霊に満たされ」ないとはじまりません。聖霊の約束は冒頭の聖句のとおり、神は「求める人たちに」お与えになるのです。
 イエスはバルテマイに、「わたしに何をしてほしいのか。」(マルコ10:51)と確認されました。私たちも願いを明確にしましょう。
「主よ。聖霊に満たして下さい。」と。