同労者

キリスト教—信徒の志す—

わかふうふ、わかもん、いっしょに学ぼっ!

— 救いを受けて —

山田 汀

「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
(ヨハネの福音書3章16節)

 私は今年の11月18日に救いを得ることができました。その日ちょうど弟も救われ、その知らせを聞いたときに、「私自身も救われたい」という想いが動き、家族に背中を押してもらい、イェス・キリストの十字架の救いを受けることができました。
 私は生まれたときからクリスチャンの家庭で育ち、教会に通っていましたがその意味を自分自身の中で見出せずにいました。段々と大人になるにつれて、いつしか教会に行くことをとても苦痛としている自分がいました。そしてその気持ちが徐々に、クリスチャンの家庭に生まれてきたことを悔やむようになりました。「自分はクリスチャンの家庭ではなく、普通の家庭の子どもとして生まれたかった」と思ったり、「もし、教会に行っていなかったら、こんなに悩まなくても済むし、もっと自分の人生を楽しく好きなように生きていけたのではないか」と考えるようになりました。そのような考えを持つこと自体、神様に対して罪深いことを行っていると分かっていながらも、なぜ自分だけがそのことで苦しまなくてはならないのかと考え、目をそらし続けている者でありました。しかし、神様はそのような私でも捉えて下さり、嘉納先生の礼拝での説教の中で、「世の中と教会とに片足ずつ置くことで、重心を世の中の方に置いているからこそ、しがらみができ、そこから生きていく上での心の不自由さを感じてしまったり、世的な考えに傾いてしまう」ということが語られ、今の自分自身にとても当てはまり、心に響きました。何とかして今の自分のわがままな考えを変えなくてはいけないと思うようになりました。その中で示されたのが、本当に私自身が、目に見えることや、世の中の人たちばかりを大切にしていて、私が生まれてから21年間、ここまでずっと愛して下さっていた神様や教会の人たちを、ないがしろにしていたということに気付かされました。そのような自分を心から変えていきたいと願うことができ、こうしてイェス・キリストの十字架を信じ、救いを得ることができました。今では、自らクリスチャンとして生きていくことを選んだことにより、クリスチャンの家庭で生まれたこと、神様がその道を与えて下さったことに幸いを感じることができるようになり、私は変えられました。これからは、このような気持ちを与えて下さった神様に感謝し、日々教会に使え、歩んでいきたいと思います。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)