同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 結実の考察(第5回) —

野澤 睦雄

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため・・です。」
(ヨハネ 3:16)
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
(ヨハネ 15:8)

<1.著論 1節:本書の背景について(3)>

 聖潔はジョン・ウェスレーを抜きにして論じることはできません。ウェスレーたちが自ら実践し、続く人々に勧めたものに「恩寵の手段」があります。それに熱心であったため、メソジストとあだ名をつけられたのですが、その恩寵の手段はもっと掘り下げて考察する必要があります。
以下に「結実」から引用します。
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 メソジズムが日本に紹介されたとき、「メソジスト」という言葉が「几帳面派」と訳されました。しかし初代のメソジスト達は、正餐という方法、集会出席という方法、聖書を読むという方法、個人的な祈りの時を持つという方法、慈善を行うという方法に頼って信仰をしていこうとする人々であったため、”方法に頼るやつら”という意味でメソジストと呼ばれたのですから、メソジストは「方法論者」と訳されるべきでした。
 人が神に近づき、良き実を結ばせて頂こうとするとき、この方法論を見直す必要があります。そして、今問い直されているのは、多くの人に同じ言葉で「聖書を読みましょう。」「祈りましょう。」と言うようなことではなく、信者のひとりひとりが信仰生活の場の中で、摂理によって遭遇する課題に対して、神が「こうせよ。」と示される方法、あるいは神が嘉納される適切な自らの方法を見いだし、それを実践することによって、信仰の確立と結実をすることが許されます。「彼(アブラハム)は、その子イサクを…ささげたとき、行いによって義と認められ」(ヤコブ二の二一)たという原則は、潔めの実を結ぶ時にも当てはまります。聖潔はそこにおいてその人のものとなるのです。「そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。『ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願い通りになるように。』」(マタイ一五の二八)この女の人の信仰はその人自身のものとされています。
 同じように聖潔もその人自身の聖きでなければなりません。重ねて言えば、イエス・キリストがその十字架の贖いによって備えて下さった聖潔を、自分のものとして本当に頂いてしまわなければならないということです。誤解を与えないように付け加えますが、イエス・キリストと私たちは葡萄の幹と枝との関係(ヨハネ一五の五)であって、私たちが与えられる聖潔は、私たちが幹であるキリストにつながっているときにのみ存在するものであることは言うまでもありません。
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教会のなかで、「建て上げる」ということがなされなければなりません。
教会員の一人一人の品性、霊性が、キリスト者に相応しく整えられ、変貌させられていく、子供に信仰が受け継がれる、などなどその対象は多くあります。パウロが教会をキリストの妻として建て上げることをエペソ人への手紙に書いていますが、その内容がこれです。
建て上げるためには、その当面している課題に対して相応しい手段を見出しそれを実行することが必要で、その手段こそ恩寵の手段なのです。

 次に、「結実」に取り上げている信仰の視点がのべられています。
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 本書は、従来あまり重きを置かれてこなかった「権威」と「時間」という視点で、世界観、人間観、救拯観、を考察しています。この視点を加えるとき、「罪と罪の性質との関係」、「結実と潔い品性との関係」など、聖潔の理解に欠くことのできない問題を、明快に判別できることが示されます。これにより、本来中心テーマを解き明かすための解説に過ぎない部分にも、新規性が付与されています。
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(仙台聖泉キリスト教会員)