同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 結実の考察(第3回) —

野澤 睦雄

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため・・です。」(ヨハネ 3:16)
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(ヨハネ 3:8)

<1.著論 1節:本書の背景について>

・聖化、聖潔の内容は、ジョン・ウェスレーの「キリスト者の完全」に、大変よく網羅されており、その後の著作を取り上げてキリスト者の完全と読み比べてみると、そのほとんどすべてが、キリスト者の完全に書かれている内容を、その枠のなかで少し掘り下げたようなものであることが分かります。

・「結実」には、同じ聖潔を目指しながら、聖潔であるとは言えない内容のものもあることが解説されています。
その最も中心となる問題点は、罪の性質から解放され得るか否かという点です。ウェスレーの伝えた聖潔は、解放され得るという点にあります。
ウェスレーはこう解説しています。
「この恵みに与ったと、証しするすべての人がまず罪を潔められてから、聖霊に満たされた」と。心の内に生まれながらの罪を持ちながら、聖霊に満たされて、外面の生活を聖潔く生きるのではないのです。
イエスの主張された通り「杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。」(マタイ23:26)なのです。

・「結実」に取り上げたテーマは、「教会と聖潔」の関係です。
 ウェスレーと彼に続いた人々の論じている聖潔・・・というよりも信仰経験全体・・・は、個人が中心です。教会は個人的に福音経験した人々の集団です。
 「結実」ではその点を実際の福音経験とまた聖書の記述を考察し、ある人の福音経験に他の人が関わる点を重要視します。
 それは、「万人祭司」と言われながら全く考えることがなされなかった、神に権威を与えられた人が、他の人の福音経験を導くことです。「何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(マタイ16:19)
聖潔の経験は、この神に代わって自分の前に立つ人、あるいはその逆で自分が神に代わって人を取り扱うこと、が極めて重要であるのです。

(仙台聖泉キリスト教会員)