同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 結実の考察(第4回) —

野澤 睦雄

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため・・です。」
(ヨハネ 3:16)
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
(ヨハネ 15:8)

<1.著論 1節:本書の背景について(2)>

・繰り返しますが、聖潔はパウロが「もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。」(ローマ2:25)と述べている内容と似た側面があります。つまり聖化の経験をしても、それが隣人との関係において、その人の潔さ・・愛といってもいいでしょう・・が示されなかったなら、その人の聖化の経験は意味がありません。
 ですから、聖潔は隣人との間の関係のなかに現され続けなければなりません。私たちの信仰生活の場は教会にありますから、教会の中でそれが求められなければならないのです。

・もうひとつ、取り上げている事項は、教会の中における隣人との関係に、神の代わりに立つ人とその人を通して神の恵み、叱責や懲らしめ、断罪などを受ける人とに成る場合があることです。
その点についての記述を引用しておきます。

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 「万人祭司」あるいは「各人祭司制」という思想は、聖書に明らかに記されていますが、それをカトリックの司祭制度に対抗するものとして信仰の場に回復したのはルターでした。しかし彼はその内容を十分に解明する務めは託されませんでした。ジョン・ウェスレーもまた同様であり、カトリック並びに英国教会の司祭制度との戦いのため、神はウェスレーにはその微妙な信仰の領域を託されなかったと言えます。「祭司」は神の代務者なのです。新約の時代の神の代務者とはどのようなものか問い直されなければなりません。特に「権威」という観点からそれを問う必要があります。「イエスはもう一度彼らに言われた。『平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。』そして、こう言われると、かれらに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。』」(ヨハネ20:21-23)これは真剣に取り組むべき課題です。
 教会には牧会者と会衆、牧師と信徒、牧者と羊がいます。「あなたがたは行って、…弟子としなさい。…彼らを教えなさい。」(マタイ28:19-20)という内容は、全世界の教会の中に、牧師と信徒の制度として継承されています。その師と弟子の関係も問い直す必要があります。・・・
日本では手に職をつけるといって、誰かの弟子になって教えもらうということがありました。その伝統は決して亡んではいません。学校でも、ある段階までくると教授の弟子となるのです。大工などの職業や花道、茶道、美術、陶芸、工芸といった世界でも厳然として師匠と弟子の関係があります。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(マタイ28:19)というキリストのご命令の真の内容を把握するよい土壌がそこにあります。ですから神は、ウェスレーの次に来る事柄、即ち「教会の奥義の解明」を、この日本に与えておられるのです。
 「教会の奥義」は、異邦人である私達が、「福音により、…約束にあずかる者となる」(エペソ3:6)ことであり、「あなたがた(わたくしたち)の中におられるキリスト」(コロサイ1:27)であり、「キリストと教会」(エペソ5:32)が「一心同体とな」(エペソ5:31)り、「聖く傷のないものとなる」(エペソ5:27)ことなのです。ここに「聖潔の奥義」があります。
 師匠と弟子との間には、単に知識の授受以上の関係があります。そこには、人格と人格の交流や戦いが含まれています。この関係をもっと広く、教会という場で考えてみるとき、牧師と信徒、夫と妻、親子、兄弟姉妹と兄弟姉妹、信者と求道者、などがおり、時には教会に敵対する人々までいたりしますが、それぞれの間に人格と人格の交流や戦いがあります。この人格的交わりは、同一の課題を一緒に担ったり、あるいは両者が対峙する関係であったりする中に特に強く存在します。コリント人への手紙第1、13章4節から7節までの、「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを堪え忍びます。」に取り上げられている事柄は、すべて人格と人格の間に存在することなのです。聖潔は愛に全うされることですから、この人格の交わりの中以外には存在し得ないと言えます。

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(仙台聖泉キリスト教会員)