同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 結実の考察(第10回) —

野澤 睦雄

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため・・です。」(ヨハネ 3:16)
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(ヨハネ 3:8)

<3.聖書の示す世界観>

2.権威

 著者序にも書いてありますが、日本のキリスト教界で、忘れられているように見受けられる「権威」という命題があります。
 権威ということを意識して聖書を読んでみるなら、いかにたくさんの記述があり、それが重要であることに気づくでしょう。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権(権威)をお与えになった。」(ヨハネ1:12)

以下、「権威」に関する本文を引用します。
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 聖書の示している世界観並びに人間観の根底に、権威という命題があります。摂理、信仰、救い、聖潔、交わり、宣教、婚姻、家庭、教会とその中における生活、教会の外における生活…と、おおよそキリスト教の視点でこれらのことを考察するとき、権威が関わって来ない事柄はありません。聖書は全ての事柄を権威の関係から見るのです。
 聖書の示す信仰の場は、突き詰めて表現すると、「神と私」、「神と私、と隣人」、「神と隣人、と私」の関係あるいは私と隣人が神の前に対等で「神、私、隣人」の関係から成り立っています。神無しの「私と隣人」の関係は、信仰によるものではありませんし、実際には神無しの世界は存在しないのです。人が神の存在に気づいていないだけなのです。それらの関係の中で、神は権威そのものなのです。
「悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言った。『この国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。…』」(ルカ4:5~6)サタンが堕落した後で世界を神から任せられたのか、世界を任せられてから堕落したのかは不明です。もし後ならば、サタンの堕落は天地創造の後ということになります。ただサタンが世界を任せられているということ自体については、イエスもそれに反論されませんでしたから、本当なのです。サタンは世界を支配する権威をもっているのです。パウロも「主権、力、この世の暗やみの世界の支配者たち…」(エペソ6:12)とそれを追認しています。
「人の子が地上で罪を赦す権威を持っている…こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。」(マタイ9:6~8)中風の人の癒されたことを見て、人々はイエスの権威を知ったのです。
「私も権威に下にあるものですが…」(マタイ8の9)中風の僕を持っていたローマの百人隊長は、イエスの権威を知っていました。
「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたはわたしに対して何の権威もありません。」(ヨハネ19の11)ピラトはイエスの権威に気づきませんでした。
 人間の世界に存在する場面ごとに、神はこの権威を特定の人に委ねられるのです。それが教会の中における監督・牧師の権、長老の権、夫婦の間の夫の権、家庭の中での父権、親権、などがそれです。一方罪人が救われて教会に加わるとき、神の子の権威「神の子どもとされる特権」(ヨハネ1:12)が与えられるのです。
 ですから、この権威というものは、人が救われること、潔められること、成長すること、聖霊の実の結ぶことになどあらゆる信仰生活の面において、それを把握し取り組まなければならない極めて重要な問題なのです。権威に服従することなく、それらの恵みを得ることはまずありえないと言ってよいでしょう。牧師が信徒を導くためには、教会における牧師の権の確立がなされていなければなりません。家庭において子どもの中に信仰が根付くためには、父権、親権がその中に確立していなければならないのです。その権威に服さない人は、教会の中の迷子となり、あるいは家庭にあって親に従うものに神の与え給う幸いを失うのです。
 信仰の立場でものを見るためには、この権威に関する視点がそのように重要なのです。
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(仙台聖泉キリスト教会員)