同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第94回) —

野澤 睦雄

・・クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。
・・ C.E.ジェファソン(「教会の建設」から引用)

4.おわりに(つづき)

 祭司と預言者、それぞれの書き始めに、「祭司と預言者と王の職務の比較のため既に述べていることですが、預言者の職務の中心は「神のことば」を取り次ぐことでした。この世の仕事の区分で言うならば、祭司の役目は宗教の領域であり、王の役目は司法、立法、行政そして軍事を担うものであり、預言者は教育・・普通の学校教育のようなものではなく、神との係わりに関する教育ですが・・の領域に相当しています。」と2回同じことを述べました。これで3回目ということになります。
 預言者は神のことばを語ります。その目的は「教育」です。この世の教育でなく「神の教育」です。
更に預言者の職務の概要として、エーリヒ・ザワーの「世界の救いの黎明」から引用した部分から更にその一部をもう一度載せておきたいと思います。
 −−−
1 預言者は<話す人>である。
 彼らは神の通釈であり、神の解釈者であり、言い出す人であり、「神の口」である。・・主の御霊が預言者たちを「動かし」その御言を彼らの口に授け、彼らのうちにあって語られる。彼らの舌は「すみやかに物書く人の筆で」ある。そして彼らの伝えるものは「神の言」である。

2 預言者は<先見者>である。
 彼らはその伝えようとする事柄を伝える前に、まずそれを「見た」に違いない。それゆえにその伝える事柄は、それに「幻」が、ほとんど、あるいは全く伴われなくても、ごく一般にただ「幻」とだけ呼ばれている。
(1) <外的>感覚による知覚。
 預言者は「肉体に」あるものであって、彼は「霊のうちに」あるのではない。預言者はその肉体の感覚で見たり聞いたりする。
(2) <内的>感覚。
 預言者は「御霊に感じ」恍惚状態にもある。外的な事物に対しては、その目を閉じており、内的にはその目は「開いて」いる。預言者は内的に「見たり」あるいは「聞いたり」する。内的な「視覚」によって彼は絵画的啓示(幻)を受ける。(以下省略)
(3) 人間の心の普通の働きを、ただ増大することによる知覚。
・・ ここで特に重要なのは、「預言的知覚の法則」である。天上の世界には時間の制限がない。「永遠者の目には、すべてのものが現在である。」それゆえに預言者は時間の圏から神の圏に踏み入ることによって、同時に<超>時間の圏内に踏み入るのであって、永遠者の「語り手」として今やあらゆる時間的概念を超越する。それで預言者は未来を<未来>として見ることができるばかりでなく、同じ文の中で同時に≦現在>と見ることもでき、またそれを<過去>と見ることさえもできるのである。「預言者はしばしば、時間的に遠くへだたっているものを、ごく近くに並べておく。そしてその歴史的な事件といういかりを、しっかりと捕らえながら、数千年以上ものへだたりのある現在と未来とのあいだの時期へ、しばしばとびこえてしまう」。・・

3 預言者は<ものみ>である。
 「わたしはわたしの見張り所に立ち、やぐらに身を置き、望み見て、彼がわたしになんと語られるかを見よう」。
 高いものみから、預言者は<現在>を見ることができる。「わたしはあなたがたの上に見張り人を立て『ラッパの音に気をつけよ』といった」。歴史の人である預言者は、歴史的に制約された形で、歴史の人に語る。同時代の人間として預言者は、その時代を基として、その時代の人に語る。それゆえ預言者は人々をいましめる者であり、王を監督する役人であり、社会の良心であり、社会の番人であり、また「牧者」である。
 しかし、ものみである預言者は、<未来>をも展望し、そして審判と完成とを見る。
まとめてみると、預言者は民衆の相談役であり、良心であり、目であり、耳であり、監督である。

4 預言者は<神の人>である。
 彼らは<神に聖別された>人すなわち「聖者」である。聖別されない預言者(たとえばバラム、・・)は例外であって、神の永続的なしもべではない。なせなら、神は口ばかりでなく、心をも求められるからであり、その働きではなく、働く人をも求められるからである。・・。
 しかし、「神の人」としての彼はまた、<個人>である。なぜなら、神は人間性を除こうとせず、それを変貌させようとされる。神は人間性を消去しようとされるのではなくて、それをご自身の御用に用いようとされるのである。奴隷ではなくて友をのぞまれる。媒介ではなくて、実に<人>を求められる。・・
 このようにどの預言者も「<預言者>としては彼の神のしるしを帯びているが、<人間>としてはその時代のしるし帯びている。・・おのおのがそれぞれ主の「口」であるが、その咽喉(のど)からでる音は高かったり低かったりする。声の音色と強弱とは個人個人によって異なるが、その合唱団はおどろくべきハーモニーを創り出す。それはその作曲者がただ一人だからである。」
 予言の歴史は七つの時期を経過する。
(1) 最初の時期。アダムからモーセまで。
(2) モーセからサムエルまで。
(3) サムエルから記述した預言者たちまで。
(4) 記述した預言者、ヨエルからマラキ
  まで。
(5) 神の沈黙。マラキから新約まで。
(6) キリストの予言的伝道。
(7) 教会の中の預言。
 次にメシヤ王国によってすべての予言が成就し、したがってすべて特別な予言のやむすばらしい時期がくる。
 ・・ われわれは、「言語的」預言、すなわち<言葉>を用いてする預言と・・「類型的」預言とを区別すべきである。
 類型的預言は(言葉によって)ある類型(類型をもってする予表)を預言する。それは二通りに成就する。言語的預言は、類型が現れることによって成就するが、類型的預言は、この類型が「実現」することによってのみ、完全に成就する。・・ この意味においてイスラエル王国に関する預言は、同時に教会時代に関する預言であることが、しばしばある。旧約の意味では、明らかにイスラエルと末の時とに関するものである旧約預言を、なぜ新約の今の教会時代に霊的に適用するかという問題については、ただこの事実だけが、解決の鍵をわれわれに与えてくれる。その際もちろん、それらのことが文字通り適用されることを否定するつもりはないのであるが(ローマ 11:29)、神の側からは、これらの預言は、旧約の預言者たちが自覚していたより以上の意味をもっていたのである(ペテロⅠ 1:11−12)。
 それ故、ただ霊的にばかり解釈するのは全くの誤りである。それはイスラエルに神が与えた約束を、イスラエルから奪ってしまうことになるからである。しかしまた、文字通りの未来的意義<しかない>と説明するのも、やはり一方的解釈である。なぜならば、それは新約の引用を不当に扱うことになるからである。「霊解」はかなり広く新約で用いられた方法であるが、そうかと言って、そのために他の解釈の方法をすべて捨てるべきではない。
・・
 かくて、旧約の預言は、救拯史のなかで四とおりの解釈を持っている。
1 預言者自身の旧約的環境に関する同時代のものとして。
2 教会時代に関する霊的また類型的なものとして。
3 文字どおりの末の日に関する、この地上に来るべき神の国の中の、イスラエルと諸国家とについて。
4 永遠の光にてらされた新天新地について。
 完成への途上においては、それぞれの段階へ登る踏み台の役しかもたない。旧約は教会時代への玄関である。教会時代は、可視的・地上の神の国へはいる玄関である。しかし、この可視的・地上の神の国も、その究極の目標ではなく、やはり玄関にすぎない。永遠においてのみ、完全な王宮は開かれているのである。
−−−
旧約の預言者の「実務」としての働きは、おいでになる救い主(初臨のキリスト)のために、その民を整えることでした。
新約の預言者のその「実務」としての働きは、再びおいでになるキリストのために、その民である教会、すなわちキリストの花嫁を、整えることにあるのです。キリストについての「知識」ももちろん必要でしょうが、大切なことはキリストの花嫁に相応しい「聖・義・愛」の「品性」を備えることで、イエス・キリストご自身がそれを備え、信仰によってそれを受け取りなさいと命じておられるのです。新約の予言者の働きを介して、信じる者の内に聖霊がそれを実現されます。

(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)