同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 結実の考察(第1回) —

野澤 睦雄

(本研究には、聖化、聖潔、きよめ、ホーリネスなどと呼ばれている事柄を含みます。これを信じる人々と信じない人々との間で、もう300年以上も議論されていることですから、もう議論はやめ、これを信じない方々には、この人たちはそう考えている、とだけ受け止めて頂きたいと思います。ベレヤのユダヤ人たちがパウロの説教を聞いてしたように、「果たしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べ」(使徒17:11)て頂ければ幸いです。)

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため・・です。」(ヨハネ 3:16)
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(ヨハネ 3:8)

 イエス・キリストを信じる人々が、目指さなければならない重要事項は、
・いかにイエス・キリストに似た人になるか、つまりその人の品性がイエスの品性と等質に変えられること
・イエスが歩まれたように人生を生きること、すなわち「善い実を結ぶこと」であると言えます。
 これは、イエスのように実際に十字架に架けられるのではなく、神の摂理によって生かされているそれぞれの生活のなかでなされなければなりません。
 「実を結ぶ」ということは、荷車に例えるなら、品性を持つことが片側の車輪、実を結ぶことがもう一方の車輪に例えられる重要事なのですが、日本のキリスト教の世界では、あまり話題にされません。イエスの話に出てくる「別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。」(マタイ13:8)も、「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。・・・わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」(ヨハネ15:2−5)も、このみことばだけにとどまって、その先に考察が進んでいないように見受けます。
 私はその重要性を考え、その内容をまとめて、「結実」という論文を書きました。「結実」の全文はこちらのページにて読めるようにしてあります。今回、それを拾い読みのように、抜き出し掲載しながら、皆さんに知っていただくと同時に、自分ももう一度その考察をしたいと考えています。
 今回は、ホームページに掲げてある「要約」を掲載します。

要約

 キリスト者になりキリスト者として生きる宗教経験は、まず救いすなわち罪の赦し(義認)と新生に始まります。
 救いの経験は、人生の一時点で生じてすぐ消滅してしまう、例えば道路でつまずいて転んだというようなものではなく、その中に生き続ける経験です。
 聖潔は、救いの経験に生き続ける中に存在するものであって、救われた後真摯な信仰生活を続けるとその経験に至るのです。 救いの経験と同様に、聖潔の経験も一時点だけの経験ですぐ消滅するのではなく、聖潔の中に生き続けるものとなるのです。
 聖潔に生き続ける人々に神はこう命令されます。「実を結べ」と。
 この、聖潔に生き続ける人々に対する神の「実を結べ」というご命令が本書のテーマです。これは、「実を結べ」と命令される事柄であり、命令を受け止めるのは「行為」です。つまり「実を結ぶ」ことは何かを行うことの中にあります。行いには常にその行為の対象となる相手の人・・隣人・・が存在します。聖化の経験の後の成長について論じられますが、それに関する大切なヒントがここにあります。
 キリスト教における宗教経験は、神対私という二者の関係での内容が多く論じられてきましたが、筆者はそれを、神と隣人と私という三者の間で論じるべきであると主張しています。神は人を選んでご自分の事業を託し、その人によって神の業を行うのです。他の人は、直接神とではなく、神が立てられた人を通して神と神の業に触れるのです。その目的のために、現在神によって立てられているのは教会です。教会というと多人数をイメージしますが、福音経験の場は、その時の状況に従って、神と一牧師と一信徒、神と夫と妻、神と親と子、神と一信徒と一信徒という神の他二人もしくは少人数の人の間に存在します。
 聖潔に生き、成長する信者であるためには、教会という成長の場を考慮する必要があります。彼はそこで何を行うことが神のご命令である「実を結ぶ」ことなのであるか考えなければなりません。 救いのあとに聖潔が続くように、聖潔の後に教会とそこで実を結ぶというテーマがキリスト者の進むべき道筋に存在するのです。
 筆者は、まず、ホーリネス、きよめとはどのようなものか従来の著作と視点を変えて解説した後、「実を結ぶ」ために考慮すべき事柄を多数記述しています。 本書が読者の皆さんが「実を結ぶ」よいヒントを与えるものであると著者は信じています。

(仙台聖泉キリスト教会員)