同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 結実の考察(第6回) —

野澤 睦雄

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため・・です。」
(ヨハネ 3:16)
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
(ヨハネ 15:8)

<1.著論 2節:本書の目的>

 この部分は、まず全文を掲載します。

・・・
本書を著す目的は、「本書の背景」に記した問いについて探求した結果を明らかにすることです。箇条書きにするならば、
・神と私と隣人の三者から成り立つ信仰
・新約の祭司職…神の権威の代務者
・教会制度の中における牧師と信徒
・方法と信仰
であって、はじめから三つは一口に言えば、教会に関する問題です。最後のひとつは、聖潔を得、その中に歩むことを可能ならしめることに関わるのです。
 「わたしは…教会を立てます。…わたしはあなたに天の御国の鍵を上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(マタイ16:18~19)とはどういうことでしょうか。「弟子としなさい」(マタイ28:19)、「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハネ21:17)という言葉を本当に実行するとウェスレーの個人信仰の範囲で収まるでしょうか。神に代わって信徒を弟子として教え、羊として養うことが使命なのですから、その内容は神の代務者なのです。
 誰かの信仰によって、他の人に「先行恩寵」が豊かに与えられる場合があります。この点については、ウェスレアンの信仰に立つ人々には容易に受け入れうるものと思われます。
 この問題に更に立ち入って見ると、以下のような聖書の記事に目が止まります。「ふたりは下っていって・・・彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」(使徒8:15~17) という記事は、二人の信仰で他の人々が潔められたことを示しています。「パウロが彼らのうえに手を置いたとき聖霊が彼らの上に臨まれ…」(使徒19:6)たのはパウロの信仰によったのです。ポプリオの父は本人の信仰によってではなく、パウロの信仰によって癒された(使徒28:8)のです。
 「誰かの信仰によって他の人が救われることがあり、また誰かの信仰によって他の人が潔められることがある」ことを前述の聖句は示しています。信仰が個人に属するものであることをひたすら信じてきた人々には受け入れがたいと感じられるかもしれないこのことが、教会に与えられている栄光ある特権なのです。ジョン・ウェスレー(27)自身もその可能性自体は認めています。
 ハイド(28)の働きや、ブレイナード(29)の働きが伝えられ、日本の潔め派の教会に受け入れられています。彼らの働きはこの議論の証左なのです。
 「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられ…たのは、…教会を潔めて聖なるもの、…潔く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自身の前に立たせるためです。」(エペソ5:28~29)ここに「教会」と、そこに集まる信徒の「聖」との間に関係があることが示されています。
 愛は心のうちに秘められていても、相手がいないと明らかになりません。
「私たちの父アブラハムはその子イサクを捧げたときそれを信仰と認められたのである」(ヤコブ2:21)のと同様に、愛は実践されたとき、はじめてその人が愛の人であると認められるのです。教会はその実践の場をキリスト者に提供するのです。
 ここに、教会無くしては聖潔も無いことが示されています。
・・・
 皆さんは、信仰は神と自分の間だけのことと考えておられないでしょうか。神と私と隣人という3者で成り立つ信仰、と言ったら皆さんの考えからはみ出さないでしょうか。それを追求したいのです。

 「神の代務者」というと、カトリックのの主張することに見えないでしょうか。しかし、聖書はたしかに神に代わって立つひと、イエス・キリストの名により、イエス・キリストの権威により立つひとについて示しています。

 新約の教会は当初から明らかに牧師が立てられています。牧師職とはどういうものか探りたいということです。

 イエスは「私の教会を建てます。」と言われました。
「建てる」ことをするためにはなんらかの方法を行うことが必須です。にもかかわらず、日本のキリスト教界で方法を行うということは無視されてきました。それは信仰ではないと思われたのです。ところが建てる信仰というものを考えるならば、方法と信仰が結びつくのです。

(仙台聖泉キリスト教会員)