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キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 結実の考察(第2回) —

野澤 睦雄

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため・・です。」
(ヨハネ 3:16)
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
(ヨハネ 15:8)

 この考察のベースにしようとしている著書「結実」には、<聖潔と教会に関する一考察>という副題をつけています。各章の表題からどういうことに取り組んだか、概観していただけるでしょう。
目次
著者序…………………………………3
1.緒論……………………………12
2.真理の論証について…………27
3.聖書の示す世界観……………33
4.聖書の示す人間観……………57
5.救いの経綸……………………97
6.聖霊と聖潔…………………130
7.教会と聖潔…………………148
8.結語…………………………204   
文献…………………………208   
あとがき……………………218

<著者序から>

 著者序の冒頭に、現在の世の中が、主が「こういうことが起きた後」再臨すると言われた条件が、整いつつあることが記されています。かつて、日本で再臨が強くアピールされたとき、遂に屋根に登って、「主よ来たりたまえ。」と祈りつつ待つ人まで現れたと聞いていますが、再臨に対して私たちがとるべきことは、「主にお会いできる聖潔」を得、賢い乙女に語られている「油を持っているすなわち聖霊に満たされている」ことです。
 以下に著者序の一段落を引用します。
 『私は、聖霊が新しい時代、ウェスレーの次の時代の到来を告げておられると信じます。そのテーマは「教会」です。「聖潔」を論ずるのになぜ「教会」を取り上げるのでしょうか。その理由は以下の点にあります。日本ではこの種の書物は「聖化論」という名称で発表されることが多いのですが、日本のキリスト教界では「聖化」という言葉を「聖潔」と同一の意味に取り扱っています。しかし、もともとの日本語の上から言えば、聖化という言葉には「変化」を示す意味が含まれています。すなわち「聖化」という場合には「潔くなかった」ものが「潔いものに変えられる」ことが主題なのです。これは学校を例にとるならば、入学試験であって、聖化されるとは、入学試験に合格し学校に入ることを許されることに相当します。しかし入学試験を論じて学校を論じたことになるでしょうか。入学前にどんな学校で、どんな先生がおり、何を教えてくれる、どんな資格が与えられるかなどを調べて学校を決め、それから受験するでしょう。その程度には、神の備えてくださった「聖潔の恵み」に関しての知識を得て「潔められる」経験を求めることでしょう。しかし学校において教育して頂けるのは、入学した後で起きることなのです。同様に「聖潔」を本当に自分のものとして身につけることは、「潔め」の経験をさせて頂いた後に起きることなのです。「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、…あなたがたに与えている。」(ヨシュア記1:3、14:9)と書かれているとおり、摂理により神が遭遇させなさる人生における様々な事態、失望する事態、忍耐を要する事態、苦痛に耐える事態、愛を要する事態、寛容を要する事態、謙遜を要する事態等々に、信仰によって気落ちせず、忍耐し、苦痛を忍び、神と人を愛し、寛容であり、謙遜に生き、それらのよき実を結ぶことによって、カナンの地(申命記7:7−9)、約束の地、聖潔の地は私達のものになるのです。教会は「真理の柱、真理の基」(1テモテ3:15)であって、キリスト者がその姿を顕わす場です。ある者は潔く、兄弟達を担うものとして生きますが、あるものは担われつづけて生涯を閉じます。そこにキリスト者の結実と成長の場があります。潔めはこの結実、成長と切り離すことのできないものです。ですから、「聖潔」と「教会」を一緒に論じなければならないのです。「…キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた…のは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自身の前に立たせるためです。」(エペソ5:25−27)」 「私はこれらのことを整理していくうちに、『教会の関係』という概念を持つに至りました。それは、神の権威のもとに福音を前提として、二人以上の人が一つの課題の当事者となるということであって、単に救われている信者どうしの間にだけでなく、信者と不信者の間にも存在する関係です。教会の中では、牧師と信徒、夫と妻、親と子、兄弟姉妹と兄弟姉妹、信者と求道者の間にその関係が存在します。教会の関係において真の”聖徒の交わり”が築かれたり、あるいは人間の罪、愛の不足が暴かれたりします。』
 「福音経験という視点から見た従来の神学をつき詰めて言えば、「神の前に一人の人が福音経験をし、出ていって人々に愛を施す」という神学です。これを私は「一人の神学」と呼びたいと思います。教会の関係は、「神の権威のもとにある『私とあなた』の関係の中で福音経験をする」という神学です。これを私は「二人の神学」と呼びたいと思います。聖潔は二人の神学の中に存在します。なぜなら、聖潔は全き愛でありますが、愛は自分一人がいるだけでは顕わし得ないからです。」

(仙台聖泉キリスト教会員)