同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

~ 神からの志を堅固に ~

石井 和幸

「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする」
(詩篇19:7,8)
「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ」
(詩篇19:14)

 「♪創、出、レビ、民、申命記~」
・・・最近娘は、日曜の朝になるとこの歌を教会学校で教わり、練習しています。聖書にある書名を順番に、鉄道唱歌のメロディーに合わせて歌われるもので、子ども讃美歌にあり、私も小学一年生のとき、教会学校で讃美をし聖書の書名を覚えたものです。ただ、当時は鉄道唱歌のメロディーであることを知らず、特急ひばり号に乗るたびに、(なぜ車内アナウンスの前に「♪創、出、レビ、民」のメロディーが流れるのだろう?)と思っていました。 
 娘は小学一年生になり、4月より自分の聖書と讃美歌をもって、教会での礼拝、集会にて前の席に座るようになりました。隣のお姉さん、後ろに座る教会学校の先生にお世話になりながら、集会にて聖書を開いていることをとても感謝に思っております。
 先日、私が礼拝司会の当務にあたり、気づいたことがありました。それは、「講壇から、前の席に座る娘が良く見える・・・イコール、司会である私自身が良く娘に見られている」ということです。私が子どもの頃、教会にて父が司会に立つとワクワクする反面、自分がちゃんと集会に参加しているか・・・寝ないで先生のお話を聞いているかチェックされているのが嫌だな・・・と感じたりもしました。いざ私が父親の立場となって講壇に立つ際、こちらが子どもを見る以上に、子どもが自分を見ていることの方がプレッシャーに感じることが分かりました。私の教会では、牧師が説教をしている間、司会者は会衆席に戻らずに、ずっと講壇の椅子に座るようにしています。娘は常に父親を見ることができます。とはいえ、互いに礼拝中目を合わせている訳ではありませんが、娘は私がどういうことばを用いて、どのような間合いで司会をし、どのような態度で牧師の話、特別讃美を聞いているか、関心をもっているのかが分かりました。
 また、集会出席のため家で支度する際、子どもたちが「きょうはどんな集会? 用意するものは?献金はあるの?」・・・等質問をしながら、親がどのような態度で集会に出かけようとしているのか、見ていることをひしひしと感じます。私たち夫婦は、主にある喜びと感謝をもって教会に向かうことを最近特に心がけるようになりました。
 私は講壇に立ちながら、牧師が大切な神からメッセージを語るとき、子どもたちが親とともに心を開いてその恵みに与ることを願いました。
 私自身、かつてはいちばん目を覚ましていなければならないときに集会で眠ってしまうような者でありましたが、神の憐みによってここまで忍耐され、導かれてきたことを大変感謝しております。子どもが神の前に心を開くことを願うのであれば、まず親である私たちが謙って、神からのメッセージをしっかり聞き、喜んで受け入れていく必要があることを覚えます。そして、主に仕える際に用いることば、態度が主によってきよめられるように、なお夫婦で祈りつつ取り組んでいきたく思っております。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)