同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

~居眠りしない高速バスの運転手~

石井 和幸

「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」
(ヨハネ12:25,26)

 数年前、私は仙台から新潟まで走る高速バスに2回ほど乗ったことがあります。片道約4時間の道のりを、運転手一名で、当時は1回のみの休憩で運行していました。(現在は途中のパーキングエリアで2回休憩をします。)
 私たちが普段ドライブをするときは、音楽をかけたり、同乗者と会話をしたりしながら眠らないように運転するものですが、高速バスの運転手はラジオをつけないのは勿論のこと、会話する相手がいるわけでもなく、静まり返った車内をよそに、ひたすら運転します。特に会津若松から新潟まではトンネルが多く、単調な直線とカーブが続き、私は乗車するたびに(プロとはいえ、本当によく眠らず耐えて運転しているな・・・)と感心していました。運転席には「気を抜かない!」「無理をしない!」と書かれたシールが貼ってありました。それ以来私はずっと、仙台新潟線の運転手が居眠りしないで運転する姿を、自分も高速道路を運転するたびに思い起こしていました。
 さて、10月に毎年恒例の教会野球部合宿がありました。今回は十数年ぶりにマイクロバスを使用して、盛岡まで遠征に出かけました。私は、マイクロバスの運転を担当しました。20名ほどの人を乗せて運転するのは、私にとってはほぼ初めての経験です。 マイクロバスの車体は4トントラックと同じくらいの長さであり、オートマチック車だったのでさほど運転は難しくないのですが、20名の命を預かる事実、良い乗り心地を提供しなければならない緊張感は予想以上のものでした。仙台の教会を出発し、最初の10分くらいはアクセルを恐る恐る踏み、(急ブレーキをかけてはいけない)と言い聞かせ、まるで雪道のように運転していました。(なぜ和幸さんの運転はこんなにも遅いのか?)と思った方が多かったに違いありません。2日目の帰り道、高速道路を運転しているときに、皆さんが寝静まる中、前述した仙台−新潟線の運転手がなぜ居眠りをしなかったのか分かったような気がしました。「自分の任務を理解し、感謝し続ける」ということが、居眠りしないということに繋がっていたように思えたのです。
 毎年、教会キャンプや野球部合宿の際、同乗者が時に疲れて寝ている中、家族のため、兄弟姉妹のためにひたすら運転する方々がおられます。今回は、その方々が気持ちよく寝ている姿をルームミラー越しに見て、とても嬉しく、感謝に思いました。私のような小さなものが行う小さな働きを、皆さんが益として捉えてくださっていることを、私はハンドルを握りながらひしひしと感じました。と同時に、もしこの瞬間、(自分がこうしてバスを運転しているのは当たり前。ああ、また今日も運転しなければならないのか・・・)と思ったら、その瞬間にすぐ眠くなってしまうことにも気づきました。
 高速バスの運転手は自らのサラリーのために仕えるのですが、昔も今も、教会の先生方、兄弟姉妹は「主のわざ」として奉仕してくださっていた姿を覚えます。私の父は十数年前まで、教会行事でマイクロバスを借りて出かける際、メインの運転手として奉仕しました。子どもだった私が父の横で補助席に座り、夜になると眠くなって首をがくがくと振っているところを、助手席に座っていた山本光明牧師が私の頭の後ろに右腕を廻し、私が補助席でも良く眠れるようにしてくださったことをよく覚えています。また、今回の合宿では、主な運営を若い3人の兄弟が担ってくださいました。若い3人の兄弟もまさに「気を抜かずに」今回の合宿にて奉仕してくださったことです。
 私自身の信仰生活、家庭を建て上げる歩みにおいて、「自分の任務を理解し、感謝し続けて」この小さな家庭に仕えたいと願いました。教会と社会に仕えることができる恵みを「当たり前」と思わず、気を抜かずに緊張感をもって、夫婦で祈りつつ歩んでいきたいと思っております。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)