同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

~ 神からの志を堅固に ~

石井 和幸

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、 いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」
(ピリピ2:13-16)

「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。
その人があなたに信頼しているからです。」
(イザヤ書26:3)

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」 
(ヨハネ14:27)

 私が勤める店舗では、左官用の鏝(こて)を売っています。私は店舗で仕事をするようになってまだ2年目で、プロの左官職人は店で売っている鏝を手に取り、時間をかけて選び、「良いものだ」と満足して買うのですが、私は一応本やインターネットでちょっと勉強したとしても、鏝に関する知識もうわべだけで、本当の良さをよく分からないでおりました。
 先月、思いがけなく鏝を仕入れているメーカー工場を廻る機会が与えられ、兵庫県三木市というところに出張しました。まる一日数か所鏝をつくる工場を廻り、今までちっとも知らなかった鏝の知識、選び方、製造しているところ・・・何より、80歳を超える親方から、子、孫、そして若手の従業員、女性も加えながら、「何としてもこの伝統、職人技を継承するんだ」という体制と心意気を学びました。「さあ、おまえはどうするんだ?」と神から迫られたような気がしました。仕事のことだけではありません。何より家庭の建設、教会の建設に対し自分は、「私は所詮この程度しかできませんから。」と最初から心でそう決めて、浮ついた、あいまいな気持ちで取り組んでいる部分はないか?」という問いかけでありました。そして、「自分はどういう志をもって家庭と教会を建てることに取りくむのか?」と、考えさせられたひとときでした。

 先日は教会で創立記念感謝会があり、山本光明牧師・和子婦人伝道師が私たちの教会に赴任されて50年になることを記念し、感謝するときがもたれました。光明先生・和子先生がそれぞれ50年の歩みを振り返り、証をしてくださいました。その内容はとても一言では書ききれない、学ぶべき、そして神に感謝せずにいられない出来事、神の導きが多く証されていました。先生方の証を伺いながら、「教会とは何か」を説き続け、「教会の建設」に真摯に取り組み続けられた先生の姿が心に残りました。「教会の建設」・・・そもそも、「教会」という価値観自体がバラバラだった、初代の信徒に対する労苦がそこに語られていました。
 『鏝』について上っ面の知識、イメージしかもっていなかったように、私自身、つい最近まで「教会」というのはこういうところ・・・と勝手なイメージをもちつづていました。例えば「証をする」ということは「無秩序に自分の思いを集会でぶちまけていいこと」・・と勝手に思っていた自分でありました。そんな私のような者にも忍耐し、愛をもって真の福音、真の教会を示し、ともに労を担ってくださった先生の証に、とても感謝をおぼえました。先生方が主の前に祈り、取り組んでこられた50年、神は多くの救われた魂をこの教会に起こして下さり、福音を本当に理解し、信仰がしっかり継承されて今の教会が立てられていることを改めて覚えました。

 山本光明先生は最後に冒頭のピリピ書の御言葉を開いて下さり、「どこに信仰の中心をおくか、志のない、芯のない信仰ではなく、志が与えられたら、それを証しし、神の前に表明し、志を持ち続ける、結実にむかう信仰生活を目指しましょう」とメッセージをしてくださいました。子どもに対して、親が生きる「教会」とは何か? 毎日の現場において、真実に信仰に生き、キリストの教会を教え、真の喜びと涙をともにしていかなければならないと思いました。先日は主任牧師から、「志を完結できるかどうかが大事」と教えていただきました。うわっ面の信仰で、継承できないまま終わるものではなく、豊かに主の導きと愛を顕すものとして、尚祈りつつ謙って歩みたく思っております。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)