論説
— 神に近づく(6) —
「人はうわべを見るが、主は心を見る。」
  (I サムエル記 16:7)
エノクについて記述されている聖書箇所を引用して、神に近づく幸いについて考えました。私たちが歌い慣れている讃美歌にもこう歌われています。
 ♪主と共に歩む その楽しさよ
    主の踏みたまいし みあとをたどる
  (折り返し)
    ひと足 ひと足 主にすがりて
    常に 常に 我は歩まん
   ・・・ 
    エノクのごとくに 我をも上に
    移させたもうまで 日々主と歩まん
     (インマヌエル讃美歌615)
 神に近づくということにおいて、殊に大切なことは、私たちがこころの宗教をしていることであって、「主と共に歩む その楽しさよ」と歌うとき、こころが本当に楽しさを感じているということです。
   こころが楽しいと感じることは、そうでなければならない・・という義務に追い立てられてできるものではありません。
この論の書き出しに述べましたように、
   ♪主よ君の御座近く 我を引き寄せ 
    隔てなき友のごと あらしめ給え
  と繰り返し歌い、それが心からの願いになりますように。
   主に「隔てなき友」としていただける幸いは、考えただけでもそうだと思えるでしょう。ですからそれをこころからの願いになるまで自分のものとしましょう。
 筆者は、若いときに、<こころから>イエスの直弟子たちをうらやましく思ったことがありました。ヨハネのようにイエスの胸によりかかって、そのみ声をきけたらいいのに、と。
   その時、イエスは即答で私に応答して下さいました。「わたしは、ここにいる。」と。それは私自身のこころのなかでした。耳に聞こえる肉体上の声ではありませんし説明がむずかしいのですが事実です。それで私は、イエスと共に生きている、イエスと共に歩んでいる自分を理解しました。それで、イエスの直弟子たちをうらやましいと思わなくなりました。
   こころの宗教をもって神に近づくとき、神はそのように私たちに答えて下さるのです。
   皆さんも、神に近づく幸いを追い求めてください。
 ところで、この<み声を聞く>ということには少し考察を付け加えておくことが必要でしょう。
   はっきり言って、神の声を聞いたつもりでサタンの声を聞いていた人々は数知れず、といった感じですから。
   聖書はなんといっているでしょうか。聖書中には、旧約聖書も新約聖書も神の声を聞いた人であふれています。その例を引用しましょう。
  ノアは、「あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。・・」(創世記6:14)という神の声を聞きましたが、それはどのように伝わったのでしょう。神は耳に聞こえる声をもって彼に語ったのでしょうか。
   アブラハムには神が何度も語られて、彼の歩みを導かれました。「主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。・・」(創世記12:1)
  というように。
   サウロ(後のパウロ)が聞いたのはこうでした。「・・ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。・・」(使徒の働き9:3-4)他の箇所で彼は、同行の人々が、音は聞いたが声として聞き分けられなかったと語っていますので、この時は、パウロは耳に聞こえる声を聞いたことは明らかです。しかし他の場面ではどうであったかわかりません。
   現在のキリスト者はどうでしょうか。
  讃美歌を引用してみましょう。 
  ♪この世のつとめ いとせわしく
   人の声のみ 繁きときに
   内なる宮に 逃れゆきて
   我はきくなり 主のみ声を
 昔主イエスの 山に野辺に
   人をば避けて きき給いし
   いとも尊き 天つみ声
   今なお響く 我が心に
 主よさわがしき 世の街路に
   我を忘れて 勤しむ間も
   小さきみ声を 聞き分けうる
   静けき心 与えたまえ
    (インマヌエル讃美歌128)
♪・・・・
   みむねに憩える 心は楽し
   御霊に満たされ 慰め尽きじ
   恵みのみ言葉 妙なる歌を
   日々聞くわが身は 歌わざらめや
   ・・・
   (インマヌエル讃美歌540)   
   私たちの先を歩んだキリスト者たちが神の声を聞いていたことは明らかです。
   イエスはこう言われました。「わたしは良い牧者です。」「羊はその声を聞き分けます。」(ヨハネ10:3)
   聞き分けることができるか否かを分けるのは、「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、・・・わかります。」(ヨハネ7:17)というイエスのことばどおりです。
   神のみこころに従って生きることができているか否かをこころの審判として、恐れずに進まれることをお勧めします。