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質問してみよう「聖書を学ぶ会」—53

「あなたがたはこの地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇を取りこわさなければならない。』ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。」
(士師記2:2)

 今回は、イスラエル人が主の使いの声に聞き従わなかったことから主の怒りがイスラエル人に向かって燃え上がり、彼らを略奪者の手に渡して、彼らを略奪させた所を学びました。その中からの質問で「士師記2章1~5節の出来事はヨシュアの死後のことですか」という質問に対し山本嘉納先生は、「イスラエルの民がヨシュアの死後の安堵(油断)から契約を結んでしまったのではないか」と語っておられました。このことは、現在私達の教会の山本光明先生のこととも関連づけて語られました。私も80歳を越えて尚私達の教会に間違いなく緊張を与えている光明先生を身近に感じている一人として、私達の教会は光明先生が大切にしてきたことを、私達の良き財産として私達のものとしていかなければ揺り動かされていく危険もあることが示されました。
 また、この集会の中で幾度も語られていた事は「侮り」という言葉でした。イスラエルの民は、神は何度でも私達を助け救い出して下さるという心を持っていたその侮りの恐ろしさを知る事が私達にとって大切な事であり、その事を覚えて私達が畏れを持って歩み続けるなら、神は更に私達の歩む道を備えて下さり、その道は守られて歩むことが出来ることが語られました。
 侮りの心を持たない為に、私達はいつも神の言葉に敏感になっていることが必要であると思いました。
 関連づけて、ルカ7:4-6の「百人隊長に向けられた資格とは何の資格のことか」という質問に対しても、嘉納先生は「それは救いを受ける資格である。侮る事なく自らの主観にとらわれず客観的に見る目があるなら、ローマの百人隊長のように救いを受けることができる」と語っておられました。
 私は、最初から神を信じていたわけでもないのにこの百人隊長に豊かな救いが与えられことに不思議さを覚えました。しかし、侮ることなく神の示しを敏感に捉えることができたからこそ彼にも救いが与えられたのだとこの集会を通して思うようになりました。

(執筆担当:森田 輝 仙台聖泉キリスト教会会員)