同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

教会キャンプでの証し
~ 家庭における取り組み ~

石井 和幸

「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
(ローマ 5:1-5)

 4月の初めに持たれた恒励会で、山本光明牧師より、「和幸兄が夜8時・9時ころ遅く帰って来て、ガラガラーっとシャッター閉める音が聞こえると、その時間から子供達との時間をもたなければならないのかと、ほんのわずかな時しかないのでは?と心配してしまう」と語られました。昨年末、私が勤務する石井商工から工場長夫婦が引退して、私は「忙しいフリをしている」という仕事ぶりから、本当に「忙しい」生活へと変わりました。日中、仕事においてなすべきことが沢山あるのに、たいしてはかどらない自分の実力のなさに失望する日もありました。いつしかそんな状態を自分自身「仕方が無い」としていました。けれども、家内からも「忙しいのは分かるけど、なんとかならないものか?とりあえず家庭のなかで「オレは忙しいんだ」とあたかも自分だけ忙しいかのような態度をとるのはやめてほしい」と言われました。主任牧師からも、「光明先生に言われたね」と話題にされましたが、それでも自分では「仕事が忙しいのはしょうがない。そういう体制なんだから。限られた時間で子供を優先し、関わりを深くしよう。」と思いました。
 一週間くらいたって、夜9時頃帰宅すると、家内から「今日謙悟が夕飯のお祈りのまえに『あれー?おとうさんは?』と聞いたから、私が『お父さんはいまお仕事だよ』と答えたら、けんごは『えーっ!』といったのよ」と報告がありました。私は息子が言った「えーっ!」という言葉が心に刺さりました。その日以来、仕事中も謙悟のことばを一旦かき消そうとしても、常に心から息子の言葉が消えず(なんとかしなければ)と思いました。謙悟が「おとうさんである私」を、今意識しているということを知ったのと同時に、家内が、「私の仕事がいそがしいから、謙悟が「えーっ」と言ったことなんか耳にいれちゃいけない」とはしなかったこと、むしろ私にいの一番に報告したことが心に留まりました。
 そのことを仕事中も考えているうちに、いまさらですがひとつ気付いたことがありました。それは「確かに工場長夫婦は退職したけれども、それを機に、事務所が一つに統合されて、自分の仕事がしやすくなったではないか、自分を助けてくれる事務員がそばにいるではないか」ということです。また、最初から「この体制で忙しいから仕方が無い」と半ば諦めていて、大した努力をしていないことにも気がつきました。一緒に事務所で仕事をしている事務員の方が、今までよりも勤務時間が長くなっているにもかかわらず、常に仕事場を小走りで素早く処理している姿を見て、気づかされたことであります。私は仕事の立場上、従業員に指示をします。ときには欠点を指摘するときもあります。けれども、いま会社の中で私に指摘をしてくれるのは社長か牧師です。それもごくたまに、よっぽどな時です。ですから自分自身、両刃の剣のように、人に対して行う指摘を自分に対してもしなければならない。そして何かを動機にして時に自分を奮い立たせなきゃならない。息子の「えーっ!」ということばを聞き流す事もできるのですが、今の自分にとってむしろ重く受け止めなければならないと思いました。
 私が結婚した当初から、今でも家庭集会などで山本嘉納牧師ご夫妻から夫の役目として教えられることは、「妻の1日の労をねぎらい、耳を傾けること、話を聞くことでありました。しかし私は、仕事で疲れた顔を引きずって家庭にもちこんでいました。その姿を見て家内は、「家庭で起こった1日を、疲れた夫に話すのはナンセンスだ」と思ってしまい、重要な事柄についても、夫婦の会話が成り立っていなかったがためにずっと棚上げになっていたり、お互いに心が安定しないまま子どもに不適切な対応をしたり・・・ということがありました。家庭集会では、家内が私への疑問や不満を話題にあげると、私は先生方から『あなた、奥さんと会話してないでしょ?』と指摘され、素直に認めざるをえないこともありました。 今でも、1日が終わって家内の話に耳を傾けるのは私の課題です。
 両親や妹、叔母との同居、3世代の生活が始まってからは、当然家内が相手する人格が増え、家内が「今日あったこと」として私に報告するとき、登場する人物も当然頭数がふえました。しかし、いくら家内が家族について話をしたとしても、まず自分が夜の食卓の場にいなければ、その人がどういう思いで、どういうシチュエーションでの言動、行動なのかが見えてこないですし、ある一定の推測や判断で物事を決済して、家内に指示をするわけにはいかないことを痛感しました。さまざまな人格が、喜怒哀楽を食卓で表現するなかで、だれがどの発言について、どういう反応をしただろうか? あなたはそれについて今後どうしたらいいと思うか?ということを夫婦で話す必要を示され、そのようにして家庭における緊張感、家風を創り上げていく大切さを教えられています。そういう取り組みをしているうちに、結婚当初は私に遠慮をしていた家内が、こんどは「昨日あなたが食卓であの人に言ったこと、この人にした態度はおかしい。是正の必要がある」と冷静に私に言うようになりました。家庭内だけではなくて、教会のなかにおけるお互い、そして子どもたち・・・という観点でお互いをチェックし、必要であれば牧会者のところに伺う、という営みを、本気になって取り組んでいかなければならないことを覚えます。
 私や家内がどういう反応をするか、子どもたちはよく見ています。私は物事を棚上げにしたり、あやふやにしたりしておく傾向があるのですが、そうではなく、ひとつひとつ神に決済を求めていく、対策をねって先手をうって、宗教性を子どもたちに明らかにする必要を示されています。そのために、緊張感を持ちつつも、楽しく豊かな家族間のコミュニケーション、交わりがなされるように、なお知恵と導きを神に求めていきたいと思っております。
 
 以上のことを、教会キャンプにて証しをさせていただきました。昨年より、「家庭における宗教性の確立」というテーマでキャンプにおける成人グループの一つを担当させていただいております。グループでの分かち合いの中では、山本光明牧師より、人間にある三つの側面・・・「知性・感情・意志」特に意志に成長が与えられるように、子どもを教育する必要があることを教えられました。また、人格との豊かな交わりを通して『品性』に成長が与えられなければならない、引き上げられ、潔められる必要も教えていただきました。なお、主の前に真実に謙って、『品性』に成長が与えられ、キリストの香りを放つものとさせていただきたく思っております。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)