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質問してみよう「聖書を学ぶ会」—51

「私と私の家とは、主に仕える。」ヨシュア記24章15節

 5月の聖書を学ぶ会、ヨシュア記最終章の24章が開かれました。変わらずに山本嘉納先生を通してメッセージが語られ、それぞれの質問に対しての応答がありました。
「ヨシュアを通して主が直接語られた。民の代表を集めて契約を結んだ。契約を結ぶ人たちは長と呼ばれる人。人格と人格との間ではこの方法しかない。契約関係、実際はそれが履行されるか。やらなければやらなかった事実が残る。人格と人格の中で成立していかなければならない。夫婦であろうと親子であろうと兄姉であろうと、その関係の中で成立していかなければならない。クリスチャンの信仰継承の中でも大切なものがきちっとなされていないと契約が反故になっている。本当の意味で神との関係がなされていないから人と人との関係も崩壊していく。」と語られました。

石井ミワ姉から「与えられている子供を自分の子供だからと言って侮ってしまっていることを示されました。そうしないためにはどのようなことに気を付けていったらいいのでしょうか。」という質問がなされました。
それに対して先生は「侮らないためには神と結びついていなければならない。神から預かっている人格であると神と結びつける。それができていない時、自分が自分に刑罰をかける。
蒔けば刈り取らなければならない。本気で自分のこととして畏れていくことができるか。責任を放棄することはできるが、その行き着くところは人間の信用はなくなり賞讃はなくなる。自分ができないことを子供にさせるのは不真実、結局は捨てられるか仇を取られる。自分がいかに自分を律していくか、それが今礼拝で語られている高貴さ。細かいことの集大成であり代を重ねる中に積み上げられていく。教会の中で大勢を占めていく、共通の認識として。その時その時で押さえるところがあり、空きなく精一杯の努力をしていく。すでに実証済みであるから、そのことを受け入れて実践できるか。」と語られました。

時に厳しく迫られることでありますがそれぞれに大切な人格を神様から預かっているということをもう一度覚えさせていただき、示されるところに取り組ませて頂きたく願っています。

(執筆担当:茂永 和子 仙台聖泉キリスト教会会員)