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質問してみよう「聖書を学ぶ会」—52

「主がユダとともにおられたので、ユダは山地を占領した。しかし、谷の住民は鉄の戦車を持っていたので、ユダは彼らを追い払わなかった。」
(士師記1:19)

 ヨシュア記を終え、士師記の学びに入りました。
 ヨシュアの死後、イスラエルの民は神の命によってカナン人を滅ぼし、その地を獲得していかなければなりませんでしたが、すべてを追い払うことが出来ず、イスラエルの民はあいまいさを残し、神の命令に従いきる事が出来なかった部分を示されました。
 そしてその事は今、私たちの教会の内に、一人一人照らし合わせて見る必要と、だからこそ教会の進むべき道に皆が同じ方向を見て進み続けることができるか、私たちの課題であると捉えるべきではないかと、先生より語られました。彼らにとって都合のよい生き方ではなく、神の命じられていることを正しくつかみとることが私にとって大切な時期にきていることを思わされている中で、心に響いた言葉でした。その後、いつものようにたくさんの方々が質問をされて、聖書を通じて探り求める良き時でありました。その中の一つですが、森田初実姉より、「昔、ある先生に救いは1回ではあるが、潔めは何回もあると聞き、自分自身、困難や課題を乗り越える事が出来た時に、感じる喜びは潔めなのでしょうか?」という質問があり、その質問に対して山本嘉納先生は、潔めは何回もあるという事にとらわれるのではなく、一つ一つの営みが、何度もあった困難を振り返りながら自分の行いや罪を認めることでで少しずつ信仰の歩みを進んで行き個人としての信仰の営みが確立していくのです。」とお話しがありました。
 私は救われてから、自分の困難を振り返るということをあまりしていませんでした。神はその悔い改めに対して、豊かな恵みを持って、関わってくださるのだと改めて感じることができました。
 この先生のお話を通して自分の信仰の確立に必要な事は、神を第一とし、自分の行いや罪を認めるだけではなく、振り返ることにより、新たな信仰の目が開いていくのだと示され感謝しました。

(執筆担当:森田 忍 仙台聖泉キリスト教会会員)

(編集者註:ここに言う「潔め」については以下のことを理解しておくとよいでしょう。イエス・キリストを信じますと、信者でなかったものが信仰に入った時「救い」が与えられ、真摯な信仰に生き続けると、弟子たちがペンテコステで聖霊を与えられて新しい信仰の段階にはいったのと同様の「潔め」があたえられます。「潔め」は私たちの内にある「罪の性質」を「聖絶」されることであって、ただ一度限り(そこからずれて不信仰に戻らなければ)のことです。何回もある経験ではありません。 それを受ける段階は、「罪の性質」が私たちの内に生き続けているか、「聖絶」されて十字架によって死に渡されているかのどちらかしかありません。その意味で、だんだんとか少しずつ潔められるということもありません。そのことは聖書に次のように示されています。「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」(ローマ6:6-7))
ここにいう「古い人」「罪のからだ」は「罪の性質」を指しています。それが「キリストとともに十字架につけられ(聖絶され)」るのです。そのとき私たちは「罪から解放」されます。そしてそれを「潔め」と呼んでいるのです。
 実際の信仰生活のなかの、「だんだん」とか「すこしずつ」「何回も」というのは、まず潔めの経験を与えられる以前では、信仰生活の中で、キリスト者に相応しくない心情や行動を指摘され、それを改めさせられる経験に導かれます。それが次々と起きるので、だんだんなのです。
 「悔い改めて」十字架の救いを信じると救いを与えられるように、神に「全く降伏して」(「服従して」、「献身して」とか、表現はいろいろできますが)十字架の潔めを信じると潔めを与えられます。
 潔められる以前の、「だんだん」は、神に「全く降伏」できるようになる過程です。「だんだん潔められる」と表現している場合、その過程を指していることになります。
 潔めの恵みを受けた信者にも、「だんだん」「少しずつ」「何回も」という経験が続きます。それは愛を豊かに表せるようになる過程です。潔めの恵みを与えられても、一足飛びに何から何まで完璧にできる人にはなりません。少しずつ導かれて、恵みの器に相応しくなっていきます。
 「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」
(エペソ3:14-19)
 私たちがこのパウロの祈りに当てはまる者になることは、信仰の訓練を通して「だんだん」「少しずつ」あたえられます。信仰の訓練に身を渡さない人は、これに与りません。)