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キリスト教—信徒の志す—

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質問してみよう「聖書を学ぶ会」—47

 今回の学びは、ヨシュア記20章より行われました。
 牧師先生より「21章はレビ人の諸族が書かれ、12章から20章では土地を分ける、所有、のがれの町について書かれていく、民にとっては大切なところである。民が神に従うならばのがれの町があわせて広がるという約束がされていた。これは神のご計画であり期待されていること、復讐、トラブルがあって犯した過ちは決して消えないがのがれの町に入ることができる。でなければ家族から離れて生きなければならないことを神がさだめられた。そしてさばきを受けること、あるいは大祭司の死によって放免になりその町に住むことをさだめられるが、それから後には自分の町、家族のところに帰って行ける。大祭司の死によって放免になるとは、これは血によるあがないとなるのである。これはキリストと同じである。だからのがれの町にいられるのである。唯一の解放である。これらはキリスト教であり、聖書は一貫している。神は全能なる方と知りながらも困難にあう時、自分にとってはマイナスの事がらがおきるとなぜ?と思う。神は本当にご存知なのだろうかと。しかし自分の思いで不遜なことをせずに。神は豊かなご計画を立てられているから。その予知に自らの信仰をむけるべきである。しかし人は神の導きに従いきれずには生きられない。このような神の働きに視線をむけることであり、視野を広げることである。神の導き願いにどう私たちを神はされたいのかという視野を広げなければ世と同じである。結局は自分の欲や思いに埋もれてしまうのである。本当の喜び、平安、満たしは神の導きからくるのである。それが神を信じることであり、信仰である。そして宗教である。聖書の示す、「信仰による義人」はキリストのあがないの基準である。キリスト教の本質であり、ゆるがない真の宗教である。そのことを自覚して生活をしていればぶれない。子供を育てるのにいい子に育てようとするとキリスト基準からぶれる。だから信仰継承においてまちがわないように。神の豊かな導き、満たしに感謝と喜びをもって神に栄光を帰するのである。これらはヨシュア20章、のがれの町から学べるのであります。」と語られました。
この後6人の兄姉が質問をなされて一人一人に語ってくださいました。
 牧師先生の語られることばは、私たちへのメッセージとなってこころにとどまります。しかし私たちが聞く姿勢をもっていなければ神からの豊かな導きも逃してしまうものなのだと今回の学びで教えていただきました。この学びを糧に生活をさせていただきたいと願い、この集会の学びを感謝いたします。

(仙台聖泉キリスト教会:森田 初実)