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質問してみよう「聖書を学ぶ会」—41

 この年も後半の歩みに入り、日々暑さを増している7月でありますが、場所が備えられ変わりなく集会が持たれていることを感謝いたします。

 「ヨシュア記14章、相続地の割り当て、平等、公正にくじで取られる。カレブが自分の相続地を求めた。それぞれの行使の仕方、自分がどのように表すか、与えられた約束やみことば、それは自分自身にかかっている。若い時や壮年でも違う、いろいろな表明の仕方。人生の終わりに近づいた時、どのように表していくか。カレブ、どのようなかたちで信仰生涯を表しているか。
カデシュ・バルネアの時40歳、それから45年が経った。ヘブロンを相続地として、くじではなく求めた。自分で取らなければならなかった、彼の確信がそこにあった。彼一人ではなくカレブのために共に戦う民がいた。神の恵み、神の祝福がそこにある、その人に中に神がおられると。神が成就して下さる、裏打ちとなるものがあった。だからこそヘブロンを彼は取り、豊かに信仰を押し進めて行こうとした。信仰は行いによって豊かに実を結んでいく。私たちも多くの人に豊かな感化を与えていくことができるように。」と語られました。

 

山本守兄からの質問で「カレブはヘブロンを相続地として求めたのは、やはりマクペラの洞穴があったからでしょうか?」でした。

「たしかにそのようにメッセージしましたし、ヘブロンはぶどうがとれたりカナンを見渡せる良い地ではあります。人間は良いところを与えられたからといってそれが本当に良かったのかはわからない。彼は何に価値を置いていたのか。カレブは40歳の時に言ったこと、そのことを信じ続けて、確かに神は約束されたとおりに生きながらえさせて下さったと。信仰は空信仰ではどうしようもない。彼は信仰の裏打ち、これというものを持たなければならなかった。父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神は本当にいたのかと、たとえひとりぼっちだったとしても・・・たしかにヘブロンにて、それを見たのだと思う。信じて何かをしていかなければならない。裏打ちするものが、常にその意識を。カレブは何もせずに壮健であったのではないと思う。光明牧師も80歳を超えてもジムに通い続けているように。カレブにとってヘブロンとは信仰の実(じつ)というものを表し示すところだったのだと思う。積極性に現れる謙遜、従うと言ってもやらされでは人に何かを与えるなどとはならない。本当の謙遜はいかに積極的に。」と語ってくださいました。

 カレブの積極性に心を留めさせていただき、神様との関わりをもう一度考えさせられた集会でした。

(仙台聖泉キリスト教会:茂永 和子)