同労者

キリスト教—信徒の志す—

Q&Aルーム

質問してみよう「聖書を学ぶ会」—42

 聖書を学ぶ会、今回はヨシュア記の15章を読んで集会が始まりました。
いつもの様にこのヨシュア記を読んで疑問に思った所を質問したり、礼拝のメッセージなどから質問して集会が進められていきました。

 多くの質問があった中で、山本更姉妹のマタイの福音書5章11節「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、またありもしないことで、悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。」という御言葉から、なぜ、苦しんでいる状態の中にある私達をイエス・キリストは幸いだと言われるのですか?という質問がなされました。
 それについて先生のお話は、私のための苦しみに神様は豊かな報いを与えて下さり、神様の守りの中に生かされることがあって、私達がそこに生き続けるなら幸いを備えて下さること。でも逆に、苦しまないで世の中の流れの生き方に合わせて行くならば、その場、その場の苦しみは逃れることが出来るかもしれないけど、ずっとその問題はあなたにつきまとってくることと、最初に言った神様の豊かな報いのすばらしさを見ることも、知ることも出来ないでしょうと、どこで私達は神様の側に近づいて行くのでしょうかと問われました。

 先生が姉妹にお話された様に、その事を私自身はどうだろうと思わされました。私達キリスト教を信じる者として、神の側に近くいるという事はとても大事だと改めて感じました。私も仕事をする上で多くの時間を世の中、又、社会という中で過ごしています。その中での苦しみというのは常に私の生活の中でありました。先生のお話の中で、その場その場だけの苦しみしか知らない者は世の中に合わされた者になってしまうという所で、神様を近くに置く、つまりこれは私の中では救いの経験なのではないのかと思いました。神様の前に出て自分の罪を告白し、神を自分の側に置くことで、大きな苦しみや困難がある時でも、神が私の側にいて下さる事が心の喜びだと思います。それがマタイの福音書の言葉通り、私達は幸いな、又、神様の豊かな報いがあるのだと思います。救いの経験を与えられ、又、苦しみ、困難の中でも一歩踏み出すことの大切さと神様の守りの中に生き続けられるようにこれからも歩んで行きたいと思います。

(仙台聖泉キリスト教会:森田 忍)