同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 神に近づく(8) —

「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」
(ヘブル 11:5-6)

 「神がおられることを信じなさい」と書かれたのですから、ヘブル人への手紙が書かれたとき、神がおられること信じない人々がいたからでしょう。神がおられると信じないのでは、「神に近づく」ということはありえません。
 しかし実際に語ってくださる神を経験したひとには、神がおられないなどということは、頭の片隅にも入ってくることはありません。神がおられるということはあまりにも当然のことだからです。神がおられることを信じていない人に神が語ってくださるということはないことでしょうけれども。
 私たちにとって神によって救われるということは、ひとつの神経験といえます。「私を救って下さった神」はなんとすばらしいお方でしょう。このお方にもっと近づきたいと熱心にならないなどということは、私には不思議なことです。

 さて、次に「神はご自身を求める者には報いてくださるお方」であることについて考えてみましょう。
 この報いは、私たちが真摯な信仰の生涯を歩むなら、その全体の結末として神の報いを受けることにあるでしょうが、また信仰生活の一時点において神との交わりがあり、神に応えていただく、そういうこともあるでしょう。その実際の形は「祈り」と神の応答です。

 例として私自身の経験を証しましょう。
他でも語ったことがありますので、同じ内容をご存じの方もいるかも知れませんが、またお話します。
私は1962年の5月に救いの恵みに与りましたが、そのとき大学生でした。その年の8月、学校が夏休みの期間に、私の所属する教会で3夜連続の特別伝道会を行いました。外から講師を呼ぶのではなく、牧師が自分で説教するする集会でした。第1夜、来会者は教会員である若者が中心で数も少なく、求道者は誰も来ませんでした。2晩目も全く同様でした。それで、「求道者が誰も来ない。」と先生が嘆かれました。それでその夜私は下宿に帰ると、一晩眠らずに神の前に座りました。「私の神。どうぞこの伝道会に求道者を与えて下さい。」そのまま眠らずに第3夜目の集会の時が来ました。すると、私の声をかけていた友人たちが6人、その集会に来ました。それが神のお応えであることを確信しました。もちろん徹夜で祈ることは滅多になく、そのように神のお応えを感じるできごとは多くありませんから記憶に残るのです。
 もしもその時私が祈らなかったら、きっと彼らは教会の伝道会には来なかったでしょう。神は祈りに応えて、人のこころをも動かされるお方ですあることを示されました。自分の愛する隣り人のこころを動かし、キリストの救いに与ってもらいたいと願う方々にとって、この事例はきっと大きな励みになることと思います。ある方と、家を出てもう一人で暮らしているその方のご子息が救われるようにと、心を合わせて、もう7年も祈っていますが、最近になって、「教会の礼拝に出席したそうです」とのことばを聞くことができました。事が進展することは更に祈る励みになります。
 私を祈らせたのは先生の嘆きです。他のことで、ある先生の涙に、一生懸命祈ったこともあります。祈りに夢中になる動機をいただくことができたら幸いです。

 神に近づくというテーマに、これを書いたのは、祈りに応えてくださる神を経験することほど、神を近く感じることはそうないからです。
 皆さんは神の栄えのために相応しいことで、祈って神の応えていただきたいテーマをお持ちでしょうか。それこそ神に近づく最善の機会が与えられているのです。
「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6-7)とありますから、自分の必要とするものごとすべてについて神は聞いて下さいます。
 ひとつのことに神に祈りを聞いていただいた経験をすると、またこのことも聞いていただけると信じられます。「信仰がなくては、神に喜ばれることができません。」私たちが信じることを神はお喜びになります。