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キリスト教—信徒の志す—

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質問してみよう「聖書を学ぶ会」—57

「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。」
(ピリピ 2:14)

 今月もまた聖書を学ぶ時が与えられ、それが幸いなものとなったことを感謝します。引き続き士師記を通して、また集う信者さん一人一人の質問を通して信仰の練達が与えられています。
 今回は士師記の6章、有名なギデオンの物語が取り上げられました。
その最初、もう一度イスラエルの民は神の目の前に悪を行ないます。イスラエルの民は他の宗教、ここではバアルに仕え、「見えない神」ではなく偶像という「見える神」を信仰しました。その結果彼らは、神によってミデヤン人の手に渡されます。
ギデオンはそこに神からの召命を受けて立ち上がりました。そして夜のうちに神から命じられたとおりに、バアルの祭壇を取り壊しました。しかしこの行ないに対してイスラエルの民はこのようなことをしたギデオンを殺せと言っています。
牧師はこの時、「彼らは、なぜ自分たちがこのような状態に陥っているのかわかっていない」と語られました。彼らは極めて自分勝手に神を解釈して、自分たちのわかりやすいように神を扱いました。しかもギデオンが行なったその行為の意味もわからず、その神からの命を勇敢にやり遂げた彼を殺そうとしました。どれだけ民達が真の神から離れて悪に染まりきっていたかがわかります。
そのお話を聞き、私も救われる前はその様な愚かな者だったと思い返しました。自分の行ないの愚かさや間違いが今ある神との関係を悪くしているとも知らずに、いつまでも自分勝手に生きていました。しかもその愚かさや間違いに気づいても、自分を正当化することばかり考えていつも見守り忍耐して下さる神を蔑ろにしていました。そんな悪の中にいた私を神はお見捨てにならず、引き上げてくださいました。その神の救いの御業はいつまでも私の心の中にあり、今ある信仰生活の原動力となっています。
また集会の中である質問がなされました。それはその週の初めの礼拝で語られた、神のご所望の話しでした。具体的に言いますと、マルコの11章にあるイエス・キリストが空腹の時にいちじくの木に実がなっていなかった、その記事の質問でした。その記事の中で最終的にいちじくの木は枯れてイエス・キリストが言ったようにもう実を実らすことができなくなります。
そこから牧師は、「神がご所望の時、そこに必要とされているものが無くては、それは何の意味もなさない」と語られました。私たち信者も自分たちが神を信じている、知っていると言っていても、いざ神が望んだときにそれに応えることが出来るかどうか。しかもそれは神がこう望んでいるのではないかという自分の意志や主張で神の望みを変えてはならない。神が望んでいることだけを行なわなくてはならない。牧師はそこを重要としなさいと語りました。それを聞いて私は、いつも神を見ていなくてはいけないんだとそう思わされました。神に自分をさらけ出していなくては、いついかなる時の神の所望に答えることが出来なくなる。ただ聖書を知っている、お祈りをしている、讃美しているだけではなく、そこにいつも神を見て、神の正面に立っていなくてはならない。私は神のご所望に応えられるものになりたい、そう決意することが出来ました。
 今年もこの学びの時がここまで守られたこと、またそこに神がいつも共にいて下さったことを感謝します。牧師のお話、また信者さんからの質問などから私もまだまだ学び成長していかなければならないこと、また課題が与えられています。その一つ一つに真実に取り組み、神に応えることの出来る者となっていきたいと思います。

(執筆担当:山本 守 仙台聖泉キリスト教会会員)