同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 羊飼いたち —

「さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。
「いと高き所に、栄光が、神にあるように。
  地の上に、平和が、
  御心にかなう人々にあるように。」
御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」
(ルカ2:8-20)

 先に、ジェファーソンの「イエスの品性」を翻訳して英和対訳のかたちで掲載しましたが、その本の中で著者のジェファーソンは繰り返しこう述べていました。「私は、イエスの在世当時の人々が、イエスにお会いして感じ取ったものを、そのまま知りたい」と。
 この羊飼いたちは、ご自分のひとり子を世に遣わした神が、最初に見せようと思われた人たちでした。彼らは「救い主がお生まれになりました。」と告げられただけで、生まれた方がどなたであるか理解したのでしょう。救い主はイスラエルの待望でした。「きょう・・生まれ・・た」のですから、彼らがイエスに会いに行ったのは、生まれたその日のことです。
仕事について3K<きつい、汚い、危険>ということばが流行って日本語として定着してしまいましたが、羊飼いという職業は、3Kだけでなく、「くさい」というおまけが付きます。そのにおいは、衣服にも体にもしみこんで、ちょっと洗ったくらいではとれなくなります。彼らはその仕事の真っ最中でありましたから、いっそうそのにおいを発散させながらかけつけたことでしょう。
筆者は、「イエスが王宮に生まれず、家畜小屋で生まれたのは、羊飼いたちがはばかりなくイエスに近づくことができるためであった」という説教を聞いて嬉しくなりました。それで、つまり受け売りですが、そのことをしばしば話したり書き物に書いたりしていますので、皆さんの目に留まっていて、また言ってるといわれるかも知れません。
 「なぜ神はこの羊飼いたちにイエスを見せたかったのだろうか?」と思い巡らします。同時に、羊飼いたちは「イエスを見てなにを思ったのだろうか?どう感じたのだろうか?」と。
 ジェファーソンのいうように、この羊飼いたちが見たとおり、感じた通りを知りたいものです。クリスマスの劇ではよく羊飼いたちも幼子を礼拝する姿が演じられますが、聖書には「羊飼いたちが礼拝した」とは書いてありません。
一方、東の博士たちは「ひれ伏して拝んだ」と書いてあります。
東の博士たちは、身分においても知識においても当時の世の最高峰にいた人物たちであろうと思われますので、下々のひとびとして取り扱われていた羊飼いたちとの対比が興味深く感じられます。

聖書には羊飼いたちの反応として
  ・神をあがめ
  ・賛美しながら
帰って行った、と書いてあって、それが彼らの受けた感動による反応でした。

 私たちも、お生まれになったイエスに思いをめぐらし、私たちのために救い主を遣わしてくださった
   ・神をあがめ
   ・賛美する
お互いであらさせて頂きたいものです。