同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

~ 変わらない教会生活における、変わった思い出 ~

石井 和幸

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。 何事も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなた方の願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」
 (ピリピ4:4~7) 

 先日、教会で讃美感謝会が行われた後、帰宅してから長女が家族に対しこんな質問をしました。『今日、輝君がさいごにお話しして、集会が終わったあとに、なんでみんな「おめでとう!」って言って、輝君のところに行ったの?』
同居している私の叔母が答えました。『それはね、輝君が神様を心から信じて、救われたんだよ! 真実もいつか神様によって救われる日が来るようにって、お祈りしてるよ!』
・・・讃美感謝会では、集会の最後、森田輝兄が信仰告白をし、イエス・キリストによって救いの恵みを受けた証をするときが持たれました。そして、ご両親、先に救いの恵みを受けた二人の兄弟、輝兄が救われるために必死で祈りつづけた先生、友を加えて讃美がなされました。3節からは教会全体の讃美となり、涙とともにひとりの魂が救われ、新生の恵みを受けたことを教会全体で喜ぶ姿がありました。それは7歳の長女にとって、普段とは違う、とても印象に残る光景であったようです。
 私たちは家族で教会の礼拝や諸集会に出席していますが、とくに平日夜の集会は子どもたちなりの区別があります。献金がある集会は祈祷会、献金がなくてお菓子が出る集会は、聖書を学ぶ会と聖研基礎科・・・『今日は献金ないの? それじゃ長い部屋でお菓子がでるの?』と、4歳の長男も日々の営みとして生活のなかに教会での集会が根付いてきており、感謝を覚えます。そういった教会生活において、『イエス・キリストによる救いの恵みを受けたそのとき、証、喜び』の場にいることは、『普段とは変わった思い出、印象的なこと』として心のなかに残り、刺激となるものだと改めて思いました。
 私にとって、子どものころの『普段の教会生活とは違った思い出』と言えば、何といっても教会が所属する連合の聖会、キャンプでありました。『恵みの座』が開かれると、『講壇の前に出てお祈りしてもらう人たち』を見ることは、普段目にしない光景であり、『今日の集会にて、なんであんなことが行われたのか?』と親に質問したのは私だけではないと思います。また、違う教会から集った同年代の人たちと出会うのは大きな刺激でありました。そこで分かち合われるのは、『それぞれの教会における通常』でありました。
 私が大学生になったとき、教会から何人か同世代の友が離れていく・・・ということがおき、私にとっての『普段の教会生活』が揺るがされました。そんな中、キリスト者学生会(KGK)にて同労者が与えられ、彼らによって刺激を受け、慰めを受ける中で、教会に残り続ける選択をすることができました。今、思い返してみると、もし、『通常の教会生活』が継続的に営まれてなかったとしたら・・・自分が都合の良いときだけ教会に顔を出すような信者であったなら、また、そのような考えを持つ両親の子どもであったなら、たとえ聖会やキャンプ、KGKのような場にひょっこり出席したとしても、果たして自分の印象に残るような恵み、刺激を感受することが出来ただろうか?と思わされます。無論、未信者や求道者が聖会やキャンプに突然出席して神により覚醒が与えられる可能性を否定するものではなく、そのために祈る必要もあることも意識しています。しかし、主にある家庭建設を目指すものとして、『通常の教会生活』『継続的な宗教性』が、主によって家族の中に根付いていく営みがあるからこそ、ひとりの魂の救いをこの上ない喜びとして高く値積もる価値観が構築され、教会にもたらされる喜びと労苦に敏感となり、ともに享受できるのだということを改めて覚えました。
 森田輝兄が新生の恵みを受けるまでの道のりも、長い間、教会の牧師先生方、多くの兄姉に祈られ、愛されてきた事実がありました。私たちの家庭も、たとえ苦しみや困難の中を通ったとしても、神が『普段の教会生活』に配剤してくださって、訓練と成長と共に恵みを与えてくださることを信じ、感謝しながら、尚、教会と共に歩みたく思っております。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)