同労者

キリスト教—信徒の志す—

わかふうふ、わかもん、いっしょに学ぼっ!

— 侮ってはいけない —

山田 行

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」
(マタイ 7:7)

 私たちの教会では今月、一人の青年が罪の告白をし、イエスキリストの十字架の血潮によって罪を赦され、救いを受けました。そのことを涙ながらに証しする青年の姿に、彼のご家族をはじめ、教会全体が、神の愛の素晴らしさを讃え、涙し喜び合いました。
 天の上でも御使い達に讃美が沸き起こり、父なる神もどんなに喜んでくださったかを思うと、また涙が溢れます。
 彼が証しをした集会での喜びの中心には、年老いて既に一線を退いている光明牧師がいました。今月82歳の誕生日を迎えますが、今なお救霊への情熱は衰えず、否、ここ数年はますます強く、教会の青年たちの救いに拘り、そのために神の前に真実に祈り続ける姿を身近に知る娘として、豊かに報いてくださる神に心から感謝を献げます。
 本当に最近の父は、若い兄弟の救いについて「いつになったら受け入れるのか?」「嘉納牧師はいつその機会を打ち出すのか?」と苛立ちが募る時もあったほどでした。
 救いは大切な神との初めての霊的交流であり、自ら罪をきちんと認め、悔い改める経験ですので、嘉納牧師は神の時を静かに待っていたのだと思います。そして、二人の牧師の祈りが積まれる中、ついに時が満ちて鮮やかに神の御手が動かされました。
 今年、幾度となく礼拝のメッセージの中で、侮りに気をつけなさい、ということが語られました。人は何に対してもすぐに緊張感を無くして怠けたり、甘く見たり、自分の主観で大丈夫だなどと軽く考えてしまうとのことでした。
 私自身も祈りということにおいて、侮りがあることが強く示されました。真実な神への全き信頼を欠き、祈っても聞かれないのではないか、自分の祈りにどれだけ力があるのだろう、などと祈りを軽く考え、神を侮っていなかったかを問われました。
 神は全能者であられ、全てのことがお出来になります。しかし私たちの祈りに応えて、この地上で、ご自身の御旨、ご計画を遂行されるときは、私たち人間をお用いになります。ですから、神の前に自らを注ぎ出し、神に用いていただくために、神に全き信頼を置き、真実に祈り続けなくてはならない、と示されました。
 隣人のため、教会のため、救霊のために真剣に祈り続け、侮らないように注意深く歩んで行きたいと願いました。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)