同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 神に近づく(10) —

「「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」・・・・ すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」
(ヘブル12:5-6、11)

 誰かが失敗したことを反面教師とすることを、世に「失敗の教訓」と呼び、「他山の石」とするということばで表現されますし、キリスト教の世界では「鏡とする」といわれます。
 失敗について語りなさいと言われますが、自らの失敗を語り、自らが鏡とされなければならないことはつらいことです。
 先に(2015年11月号の論説で)私が結婚の問題をつかんで放さなかった失敗についてお証ししました。恵みによってそこから解放されましたが、それは私の人生に大きな損失をもたらしました。
 そのとき私の前に、献身して牧師となる道が備えられていました。神のために、そしてキリストを信じた人々のために、また信じていない人々を滅びから救い出すために、全生涯を用いることはなんと幸いなことでしょう。それが私の前に置かれていた「神のもの」でした。しかし私は「世のもの」をつかんで放さなかったため、職業についても神のものは与えられず世のものを与えられました。そばにいらっしゃる先生方から牧師がどのようなものを身につけていなければならないか垣間見させていただいていて、自分が果たしてそれを身につけ得たか否かは分かりません。長く信仰生活をしたとはいえ、牧師にならなかった今の私には及びもつかないものですが、もし神が私をそこに据えて下さったなら、その恵みも一緒に下さったことでしょう。
 この世の職業で、私が何を獲得したかすこしお話しようと思いますが、それに先だって、懸念することが二つあります。
その一は、私が天の栄光と混同してそれを追求したと誤解されることです。世で獲得できるものはどこまでいっても天の栄光にはなりません。パウロが「塵芥」と呼んだもので、神からいただく「義の栄冠」とは何の関わりもありません。皆さんにもそれをお分かりいただきたいと思います。
 もう一つの懸念は、私が獲得した世のものを、皆さんの望みに悪い手本となって、それを私も欲しいと・・天のものよりもそちらを選ぶという意味で・・思わせてしまわないかということです。
 私が大学の研究室を離れて勤めた会社は、時計のセイコーの子会社です。私がそこに勤めた丁度そのころ、スイスで開発された水晶振動子を、時間を刻む源とした時計がありました。セイコーがクォーツ時計となづけて売り出したその原理と同じですが、その大きさは一部屋いっぱいになるほどのものでした。セイコーは部品の多くを半導体集積回路に置き換えて、それを腕に載せてしまいました。電池やモーターなども含めてすべての部品を小さくしなければならなかったのですが、私の勤めた会社がそのなかの電池を担当しました。それで私もその開発部門に配属となり、長く腕時計用の酸化銀電池の開発から量産化、生産技術に携わりました。当然時計の要求に応えられる、サイズ、特性を持った電池はそれまで世になく、私たちがその最初のものをつくり世に出しました。
 最も困難であった技術課題は、アルカリ液の液漏れでした。大きなサイズの電池もマンガン乾電池から性能の良いアルカリ電池へと移行しつつある時代で、アルカリ液の液漏れは当時の、主として欧米の化学学会で論文が多数発表されていましたが、原因は分かっていませんでした。普通の乾電池でさえそうですから、まして時計に組み込めるサイズの電池の液漏れを止めることは至難の業でした。
 私はその液漏れ対策の中心技術者となりました。そして時計の設計部門が要求してくる電池を次々と開発しました。結果だけいえば、とにかく実用に耐える製品の開発量産化、セイコーへの供給に成功しました。そのために、朝8時に出勤し夜9時まで会社にいることが定常のことでした。祈祷会のために会社を抜け出してきて出席し、終わると私は会社に戻り、家内が子どもをつれて家に帰るのが珍しいことではありませんでした。
 私は電池の液漏れする原理を研究し、それを突き止めました。そのときはもう実用に耐える電池が供給されるようになった後で、電池に関わる人々の関心がリチウム電池に移っていましたので、世の注目を集めることはありませんでしたが、東北大学がその内容を認めて私に工学博士の学位をくれました。

 滅び行く魂を 重荷となしおるや
 日々主とその救いを 人に示しおるや

と讃美されますが、同じエネルギーを滅び行く魂のために注ぐことができたらどんなによかったことでしょう。

 献身の道が開かれている兄弟姉妹に言いたいのです。ためらわず、献身の道にお進み下さい。この世の道に進んでも労苦するのですから、その労苦が直接的に神のため、人の救いのためであることは幸いなのです。それに勝る神にちかづく道はありません。
 私の失敗にはもう一つ重大なことが伴いましたが、それは次回にご紹介しましょう。

繰り返しお勧めしますが、世のものを握って放さないでいるということのある皆さんは、それを速やかにやめなければならないのです。アブラハムは夜神の声を聞いて、明くる朝早くそれを実行するために出かけました。それが信仰の模範です。