同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

~ 覚悟して『神の民』として生きる ~

石井 和幸

『したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。」のであって、「つまずきの石、妨げの岩。」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。』
(Ⅰペテロ2:7〜9)

 2月20日、キリスト者学生会(KGK)東北地区で、社会人向け・卒業生向けの聖書研究会を行いました。社会人1〜5年目くらいまでの兄弟姉妹が5名、神学生1名、KGK総主事と東北地区主事、60代の先輩、私・・・といったメンバーで、私は司会を務めさせていただきました。聖書箇所は第一ペテロ1章22節から2章10節、KGK本部から送られて来たテキストをもとに、学生時代の雰囲気そのままに活発な発言や証がなされるひとときでした。
 冒頭に掲げた御言葉は、その時特に印象に残った箇所です。『より頼んでいる人』と『より頼んでいない人』の違いは何か。両者に『石』とたとえられるキリストとの関係はどのようなものか・・・。「あなたはどうですか?」という問いかけに対し、飾らず赤裸々に現状を語る若い参加者の姿がありました。
 ある兄弟は「(神に)より頼んでいると言いたい。365日そうとは言えないが、より頼んだことによって起きる闘いや葛藤があることも受け入れていきたい」と告白しました。「『より頼んでいる』と口で言ったとしても、『心からそうなの?』という囁きが、自らの弱さゆえに聞こえる。」「より頼んでいるときと、より頼んでいないときがある」といった、正直な告白もありました。
 そういったディスカッションの中、「神を忘れてしまうような目まぐるしい、忙しい日々、葛藤が多く、自分が果たして救われたキリスト者なのか?と疑いたくなるような時が多い。『つまづきの石、妨げの岩・・・そうなるように定められていた(8節)』とは自分のことじゃないか?と思う」と、社会人1年目のT兄が発言したのをきっかけに、KGKの主事たちが第一ペテロ1章22節、23節をまず取り上げながら、「『神によって新しく生まれた者は、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになった』のだから、自らの救いを感謝しつつ、自分が弱さをもっていることを認めて『みことばの乳の必要(2章2節)』を求めてはどうか?」というアドバイスがあり、「『あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民(9節)』と、神からアイディンティティーが羅列されていることに感謝します。ぼくらは〜しなさい、という努力目標に目がいくが、神はあわれみをもって『キリストによって救われた私たちの存在』を尊くされることに目を留めたい。」と、所感を述べられました。T兄は「今、自分は神様に対してグレーな生活だ」と赤裸々に告白されていましたが、それに対して「キリストの救いによって、与えられる新しい命、性質』は、信じる限りなくなってしまうことはない」と、確かな答えがありました。
 私は兄弟姉妹それぞれの言葉を聞かせていただき、またみことばを通して多くのことを教えていただいたことに感謝を覚えました。そして最後に自分自身の証をさせていただきました。

 このとき語ってくださった若い皆さんと同じように、私にも多くの葛藤、闘いがありました。はたして自分が『神により頼んでいる者かより頼んでいない者』なのか、隣人からみてもどっちつかずの中途半端な歩みを、結婚が与えられる直前までしていました。しかし、幸いにも私は教会で生きることを選ぶことができました。私たちの教会では、神の恵みによって人格に備わる品性、気質を『宗教性』と呼んでいます。宗教性は、みことばによって養われるのはもちろんですが、教会や牧会者の導き、信仰の友との研鑽のなかで豊かに育まれていきます。その豊かな交わりの中で、「成長するために意志することが必要だ」と、私は教えられてきました。毎月のこのコーナーで、私が少し弱気な文章を書くと、家内から『あなたが、キリストは子どもたちにとってつまづきの石になるかもしれない・・・というような姿勢では困ります。礎の石であることを告白しつづけ、そこに立ち続けてください。』と言われ、大胆にその所に修正をかけられます。私自身、たとえ世の人が、『あなたは子どもに対してつまづきの石を置いているのではありませんか?』と言ったとしても、微動だにしない信仰、覚悟を夫婦で持ち続け、大切にしなければならないと思わされました。

 3日後には、私たちの教会で(講義形式の)聖書研究会がありました。質疑応答の時間で、一昨年から昨年にかけて救われた若い兄弟姉妹が多く質問し、証をされていました。彼らには、救われた喜びを持ちつつ、キリストに生涯従う『覚悟』を良しとしている共通の姿がありました。発言をされていた方々はまだ高校生や大学生ですが、教会には、彼らの目標となる、主の前に覚悟を持って神との契約を守り続ける社会人の先輩がいます。私自身も、結婚相手がなかなか与えられない中でも憧れ続けた、先輩のクリスチャンホームが存在します。そのような主にある同労者が与えられていることを感謝しつつ、私自信もキリストを土台とした生活をすること、覚悟してそこに座することを大切し、なお神の前に謙って具体的な示しに従う者でありつづけたいと願っております。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)