同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 結実の考察(第32回) —

野澤 睦雄

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため・・です。」
(ヨハネ 3:16)
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
(ヨハネ 15:8)

<第6章 聖霊と聖潔>

 今回は、人間の結実と成長に聖霊がどのように関与しているか考察します。 

結実と成長は、実際の信仰生活の歩みのなかにあります。聖霊はその歩みそのものを導いてくださいます。
以下に本文を掲載します。

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3.結実、成長と聖霊
 「主は御霊です。主の御霊のあるところには自由があります。」(コリントⅠ 3:17)
 「御霊の実は、愛、喜び、…です。」(コリントⅠ 13:4-7)
 前章、「救いの経綸」において、結実、成長の定義を述べました。要点をもう一度述べますと、もともと人間は全的に堕落したものであって、善き実を結ぶ要素は持ち合わせておりません。ですから、神は救い、潔めの経験とともに、神の聖・義・愛であるその品性を人間の内に注ぎ、分与されるのです。それを与えられた人間が、それを預けられたタラントとして、生活の場の中におかれた必要に対して活用する、すなわち愛の行いを行うとき、それを結実というのです。イエス・キリストがタラントの譬えで語られた通り、人間が善き実を結ぶと神は神の聖・義・愛を更に多く与えなさるのです。神がその聖・義・愛を増して下さるとき、人間は自らそれを自覚し、自分の変化を認識します。それを人間の成長というのです。ですから成長は「経験」されるのです。
 「あなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された新しい人を身に着るべきことでした。」(エペソ 4:23-24)聖化において、人間に神の聖性が分与されますが、その神の聖の分与は、さらに先の時点で、遙かに広がっていく性質のもので、その量、その質が増大するといっても差し支えありません。「こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力を持って、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。…人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」とのパウロの祈りは、終わることのない、神により似たものとなっていく広い恵みの世界を示しています。そこに進歩的潔めがあります。
 人間の結実と成長も、実自体が「御霊の実」と言われるくらい深く聖霊が関与されています。神の愛を注ぐのも聖霊、結実の場に導かれるのも聖霊、私たちはぶどうの木の枝で、父なる神が実を結ばない枝を除かれ、ぶどうの木の手入れをされてもっと実が実るようにされると書かれていますが、それを私たちに実現して下さるのも聖霊です。
 御霊に満たされること、御霊によって歩むことが、結実と成長のための必須の要件であることは言うまでもありません。自ら進んで御霊の権威に服すること、それが鍵なのです。
 私たちの結実と成長は何もしないで与えられるものではありません。それは、神が与えて下さるところの結実と成長の場、その機会に私たちがどのように生きるか、何を行うかにかかっています。

(仙台聖泉キリスト教会員)