同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 結実の考察(第30回) —

野澤 睦雄

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため・・です。」
(ヨハネ 3:16)
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
(ヨハネ 15:8)

<第6章 聖霊と聖潔>

 今回は、聖霊が人間の救いにどのように関わっているかについての考察の部分です。
本文中に放蕩息子の例話を引用しています。この物語は、イエスのたとえ話=フィクションとも考えられていますが、ここではイエスが知っている事例を引用したものとしています。
また、聖霊の支配ということばを、「聖霊が人間の意思を越えてその人を動かしてしまう」という意味で使っています。
以下に本文を掲載します。

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1.人間の救拯(きゅうじょう)に関する聖霊のお働き
 人間の救いについては、前章、「救いの経綸」において既に述べたことですが、視点を聖霊の働きに置いてもう一度記述します。
 救いに与る前の人間は、罪を犯しても神への恐れがなく、聖書の真理であることを理解せず、やってくる神の裁きを知りません。その人間に、神がおられること、義とは何であるか、罪とは何であるかという認識と、自分は罪人であるという「認罪」を与えるのは、聖霊です。イエスはいわれました。「その方(助け主、聖霊)が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」(ヨハネ6:8)
 ペテロに「主よ。私のような者から離れて下さい。私は罪深い人間ですから。」(ルカ5:8)と言わせたのは聖霊です。
 放蕩息子に、「立って父のところに行ってこう言おう。」(ルカ15:18)と考えさせたのは聖霊です。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前にも罪を犯しました。」(ルカ15:21)と言わせたのは聖霊です。
 ピリピの牢番にパウロとシラスに対して、「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか。」(使徒16:30)と言わせたのは聖霊です。
 人間は「全的に堕落」したものであって、聖霊の助けなく救いを求めることを致しません。
 聖霊は、悔い改めた罪人に、罪の赦しを実現し、新生のいのちを与えます。聖霊によって「人は新しく生まれ」(ヨハネ3:3,5)ます。「いのちを与えるのは御霊です。」(ヨハネ6:63)人間は自分で新しくなることはできません。ニコデモが、「母の胎にもう一度入って生まれるのですか。」(ヨハネ3:4)と聞いたのと同じくらい、人間が自分で新しくなることはできないのです。
 新生した人の心に神の言葉を示されるお方は聖霊です。
「『これは、彼と結ぶわたしの契約である。』と主は仰せられる。『あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口においたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない。』と主は仰せられる。」(イザヤ59:21)「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」(ローマ10:8)
 聖霊は、新しく生まれた人の内に静かに宿り、その人の執り成し手となられます。「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」(ローマ8:9)なのです。救われた信者は、本人が気づかなくても、聖霊は一緒に住んでいてくださるのです。聖霊は信仰の保持者です。聖霊が人の魂(心)から去られると、その人のうちに知識は残っていても信仰を失います。ですから「聖霊を悲しませ」(エペソ4:30)たり、「御霊を消し」(テサロニケⅠ 5:19)たりしてはいけないのです。
 聖霊は、一緒に祈って下さる方です。「言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」(ローマ8:26) ですから聖霊のおられるとき、「いつでも祈るべきであり、失望してはならない」(ルカ18:1)とのイエスの教えを守ることができます。人間は、祈り無しに、救われること、善き信仰をもつことも出来ません。
 “聖霊の御支配に従いなさい。”と教える人々もいますが、それは特異な場合にのみ存在することであって、通常は、聖霊は私たちを支配されません。聖霊は助け主として、かすかな細い声(列王Ⅰ 19:12)で教えられます。人間がその声を聞きその声の示していることを自ら行いませんと、聖霊は沈黙されてしまいます。
「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」(黙示3:22)

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(仙台聖泉キリスト教会員)