同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 神に近づく(16)—

「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」
(マルコ 11:24)
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。 私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」
(ヨハネⅠ 5:14-15)
「さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。」
(出エジプト記 17:8-11)

 15年6月号掲載の本コラムに、祈りについて取り上げましたが、また祈りについて考察しましょう。祈りはキリスト教信仰において欠かすことのできない重要テーマであって、祈りに関する記事は聖書全巻に溢れています。
皆さんは神に聞いていただき、それを実現させていただきたい大切な願い事をお持ちでしょうか。
そのことのためにどのように祈っておられるでしょうか。
神は祈りに応えてくださる、私たちの祈りを聞いてそれをかなえてくださると信じていることでしょう。
 そうなのですが、私たちはいかにたくさんの「神に聞いていただけない、応えていただけない」祈りをしていることでしょうか。祈りに応えていただけるかどうかは、祈る人の如何にかかわっていることは疑う余地がありません。あー。神に祈りを聞いていただける者になりたい、その願いがひしひしと心にせまって来ないでしょうか。

 冒頭に掲げた最初のみことばはイエスご自身言われたことです。
「凡て祈りて願ふ事は、すでに得たりと信ぜよ、さらば得べし。」文語の聖書には、引用したマルコの福音書のイエスのことばがこのように記されていました。祈りの鍵は信じることだ、だから祈ったのだから得たと「信じこもう、信じこもう」とした人々がいたように思われます。私たちも、同じ轍を踏んでしまいそうです。
 確かにイエスは信じるなら、神に聞いていただけると言われました。しかしこの「信じる」ということは、そうなると「思い込む」ことではありません。確かに、祈りが応えられて、結果を見ないうちにそれが実現することを確信することがありますが、それは「思い込む」ことと似てはいますが違います。
ヨハネは祈りを聞いていただける条件として、祈りの内容が「神のみこころにかなっている」ことをあげています。自分の求めているものが、神のみこころにかなうことを察知できると、「信じる」ことができます。それがイエスの「信じて祈るならば」ということと、ヨハネの「みこころにかなう祈りをするならば」ということの関係です。
 祈りを信じる人が陥りやすいことは、祈るだけで何もしないということです。「これこれの課題があります。」ということに対して「さあ祈りましょう。」といい、祈って何もしない。というようなことがないでしょうか。自分自身の課題でもそういうことがあるように思います。
 繰り返し引用する例ですが、ネヘミヤはエルサレムの城壁が崩されたままになっているために困難に陥っている同胞のことを聞いて、嘆き、祈りました。なにもしないで答えを期待することは、エルサレムの城壁が、祈っただけで建つことを期待するようなものである場合が多くあります。信仰の現場は様々で、全部同じではありませんから、祈っただけで応えられる事例もあることを否定できませんが。
 私たちが願っていることの実現には、祈りと行動の両面があります。そのことを示す好例が、3番目に掲げた聖書の引用箇所で、モーセにひきいられたイスラエルが、アマレク人と戦った記事です。モーセが祈り、ヨシュアに率いられた兵士たちが戦いの現場に立ちました。ヨシュアが戦いに立たず、モーセだけが祈っている姿を思い浮かべてください。そしてもうひとつ、ヨシュアが戦って、モーセがいないことを思い浮かべてください。それで私たちは、事が成就するために両方が必要なことを理解します。
 神はこの戦いに勝つためにモーセの祈りの役割が大であることを記憶させなさいました。

 私たちは、神に祈りを聞いていただけるものとなりたいのですが、それは言うまでもなく、「神に近づく」人のみが獲得できるものです。